孤高の人 第三章 風雪 [#地から2字上げ]新田次郎     第三章 風雪      1  新聞記者たちは追及の手をゆるめなかった。いったん新聞紙上で取りあげた英雄をそのまま放ってはおけなかった。  吹雪の中の十一日間の手記を新聞に発表しろという要求があった。ことわると、それでは談話のかたちで発表したいから、インタービューに応じてもらいたいといって来る。電話で、そういって来るほうはまだよかった。直接会社へ面会を要求して来るものは二人や三人ではなかった。  加藤は、本来、そのように人にさわがれることは好きでなかった。まして、彼の顔が彼の許可なくして新聞に出たことは、|暗《くら》|闇《やみ》で水を掛けられたように不愉快なことに思われた。 「加藤さんのことが新聞に出ていますよ」  と下宿でいわれると、彼はそっぽを向いた。 「加藤さんはえらいんですね」  金川義助の妻のしまにいわれたときは、 「新聞に出るのが偉いんなら、金川義助の方がおれよりはるかに偉いだろう」  といってかえしたほどだった。 「でも、うちの人の名は、小さいでしょう。加藤さんのように写真入りで大きくでたためしはないわ」  しまが、彼女の夫と加藤とを新聞に出る大きさで比較しているのは意外であった。しまがそういう見方をしていることも、加藤にとって快いことではなかった。  加藤は怒った顔のままで二階の階段を登った。隣室の下宿人の油谷常行が新聞を片手にやって来ていった。 「加藤さんを見直しましたよ。あなたはどこか偉いところがあると思っていたがやっぱりね——」  ひどく感心した|面《おも》|持《もち》で、新聞の顔と、実物とを見くらべながら、 「加藤さん、この新聞を持ってカフェーへいきましょう。持てますよ」  といった。  加藤は返事をしなかった。彼には、彼に関する新聞記事についての話は、いっさいが、|揶《や》|揄《ゆ》に思われた。  会社で新聞記者の訪問を受けると、彼は顔色をかえた。 「加藤さん、御面会です」  庶務係の田口みやが呼びに来ると、加藤はどこかに隠れ場所でもさがすようにまわりを|見《み》|廻《まわ》した。隠れ場所がないとなると、加藤は、思いあまった顔で、課長の外山三郎に救いを求めた。外山三郎は、その加藤のおずおずした態度を見ると、思わず微笑しながら、加藤の介添役として、新聞記者の前に立たねばならなかった。 「関西の山岳界は、とかく、関東の山岳界におされ気味だった。ところが、関西の山岳界に加藤文太郎ありということになってから、関東の連中のわれわれを見る|眼《め》が違って来たのだ。こんどのことを、関西の新聞が大きく取りあげるのは、やはり、関東に対するそういった対立意識がないでもない」  外山三郎は加藤にそう説明した。 「しかし、あれだけのことを、なぜ、これほど騒ぐのでしょう。ぼくにはわからない」 「記事がないからだよ加藤君、新聞を開いてみたまえ。暗い事件しかでていないだろう。去年の十一月には|浜《はま》|口《ぐち》|雄《お》|幸《さち》が|狙《そ》|撃《げき》された。会社の倒産はあとを断たない。首切り記事、ストライキの記事、ストライキ弾圧の記事、それから一家心中の記事は、今朝二件もあった。新聞記者たちは、暗い記事にあきあきしている。読むほうも、なにか明るいものはないかと探している。そこに君の遭難未遂事件だ……」  外山三郎は加藤の顔色を見ながらいった。 「遭難はけっして明るい記事ではないでしょう」 「しかしね、同じ記事でも、山の遭難となると、ストライキや親子心中の記事とは違ってくる。なにか大自然と戦っている、力づよい人間像が浮び上って来るだろう。その加藤という人間像が遭難ではなく、偉大なる記録とともに生還したとなると新聞は書いてみたくなる」 「あれが偉大なる記録ならば、偉大でない記録はなくなるでしょう」  加藤はなんといわれても|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》だった。社会が暗いどんぞこにあえいでいることは、加藤にもよくわかっていた。しかし、そのことと、加藤の山行がたとえ間接的にでも結びつくという、外山三郎の説に、加藤は賛成できなかった。 「ところで、加藤君、君のことが新聞記事に大きくでたので、重役たちの眼にとまったらしい。部長に呼ばれて、君のことを聞かれた」  外山三郎は、そのあとはいわなかったが、それだけで加藤には充分だった。山に行ってはならないとはいわないが、会社の仕事にさしつかえがないように、管理職にあるものは注意しろといわれたのに違いなかった。 「どうもすみませんでした」  加藤はあやまった。その席上で、外山三郎が、加藤のために、あれこれと弁解してくれているのが見えるようだった。 「別にあやまることはあるまい。予定より三日ばかり遅れただけのことだ。山だから、そういうことだってある。それに、君の平常の勤務ぶりがいかに立派なものであるかを、影村君が説明してくれた。部長は影村君のはなしを、そのまま重役に伝えたらしい。重役のひとりが、最後にこういったそうだ。加藤君が神港造船所の名前を宣伝してくれたと思えばそれでよいではないかとね。きみのことについてはそれ以上なにもでなかったそうだ」  加藤は外山三郎の話の中で、ひとつだけ|腑《ふ》に落ちないものを感じた。影村技師が、加藤のために弁護したということであった。 (あの影村が——)  加藤は研修所時代、同期生の北村安春をスパイに使ったあの陰険な影村のことを、けっして忘れることはできなかった。  影村は加藤に親切だった。ディーゼルエンジンの本を貸してくれたり、加藤の設計図に、好意的な提案を与えてくれることもあった。加藤は、それを影村の御機嫌取りだと思っていた。やがて影村が課長になった場合は、彼の周囲に置かねばならない部下のひとりの中に加藤を見こんでいるのだろうと思っていた。いままではそれでよかった。しかし、今度の山の遭難事件について、影村が、部長のところにまでいって、加藤のかばい立てをしたということは、なんとしても加藤には了解できなかった。 「いまにわかるだろう」  加藤はひとりごとをいった。 「なにがいまにわかるのだ」 「いいえ、なんでもありません」  加藤は外山三郎の前を誤魔化して、さっさと、彼の製図板の方へ歩いていった。製図板の前に|坐《すわ》ると、吹雪の中の|雪《せつ》|洞《どう》で思いついたディーゼルエンジンの霧化促進のあの機構が頭に浮んで来る。彼はそれを一日も早く図面に書いてみたかった。設計する前にその着想を外山三郎に話そうと思ったが、恥ずかしくていえなかった。  彼は下宿の二階で、その仕事をやることにした。  製図板に向って、夜おそくまで、設計図を書いていると、手がかじかんでしまいそうにつめたかった。彼はときおり眼をつぶって、吹雪の|稜線《りょうせん》の雪洞を思った。雪洞の中を粉雪がぐるぐる廻った。 「霧化促進、霧化促進」  彼はひとりごとをいいながら、例のとおり、石の入ったルックザックを背負って会社へ通った。  一月のおわりごろになって、彼はディーゼルエンジンの新設計案を書きあげた。圧縮比低下を防止するための、シリンダーヘッドの設計もできた。彼はそれらのデータと設計図を石とともに背負って会社へ通った。なにかの折に、外山三郎の前に出そうと思ったが、その勇気がでないでいた。  立木勲平海軍技師が設計室をおとずれたのは、ちょうどそのころだった。 「加藤君、たいしたことをやったじゃあないか。君が軍人であったら、|金鵄勲章《きんしくんしょう》にも匹敵する|手《て》|柄《がら》だろうな」  立木勲平は加藤の肩をたたいて、 「その後どうだ。ディーゼル機関についてなにか、新しいアイディアでも思いついたかね」  といった。  立木勲平海軍技師は奇妙なくらい加藤を|可《か》|愛《わい》がった。設計室に来れば、必ず加藤に声をかけた。立木海軍技師は山が好きだった。しかし彼が加藤を可愛がるのは、それだけの理由ではなかった。立木海軍技師には、加藤の変り方が、希望の持てる変り方に見えたのである。一般社員と違った加藤の行動の中に、なにかしら、非凡なものがかくされているように思われた。 (ディーゼル機関の改良についてアイディアが浮んだら遠慮なく、おれのところに持って来い)  そういってくれたのも立木勲平だった。もし、そういうふうにいわれてなかったら、加藤の吹雪の中のアイディアは浮ばなかったであろう。加藤はそう思った。 「どうだね加藤君」  立木勲平の厚い手が加藤の肩に置かれると、加藤は胸がわくわくした。もうあのことを黙ってはいられなかった。 「実は、ちょっと思いついたことがあります」  加藤はそういうと、机の下におしこんであるルックザックの中から、大型封筒を取り出して、がさがさ紙の音をさせながら、彼の設計図を立木技師の前にひろげた。設計図の下に計算書を置いた。  立木技師の眼が飛び出すように見えた。こわい顔だった。そのうち、大きな声で|一《いっ》|喝《かつ》されそうにも見えた。表情はしばらくくずれなかった。ときおり|瞬《まばた》きをしたり、ごくわずかに首をひねったりするところから見ると、立木技師が設計図を読んでいることだけは確かであった。立木技師のうしろに影村技師が立った。外山課長が来て|覗《のぞ》きこんだ。加藤のまわりには、第二課の|主《おも》なる者がほとんど集まった。 「このアイディアのヒントは?」  加藤には立木技師の顔がおこっているように見えた。怒鳴りつけられるか、さもなければ、永遠に立上れないような|侮《ぶ》|蔑《べつ》の言葉の前提に思われた。 「吹雪の雪洞の中で思いつきました」  加藤は、追いつめられた動物を意識した。どうにでもなれという気持でもあった。居すわった者のように、彼の気持は意外なほど落ちついていた。加藤は、鉛筆で雪洞の絵を書いて、そのときのことを説明した。 「いつしか吹雪がやんで、外に出ると丸い月がでていました」  加藤は、そんな修飾語がいえる自分が不思議だった。 「加藤君、君のアイディアはすばらしい。天才的着想といってもいい。しかも実現性のある考えだ。ディーゼル機関の将来に新機軸を与えるものであるといってもいい。しかし……」  立木海軍技師はそこで言葉を切って、 「これを実用化するには、さらに綿密な設計と実験がいる」  そして立木技師は加藤の書いた図を外山三郎に渡しながら、 「この着想の実用化にかかるがいい。研究実験費についてはぼくから重役の方に話してやる」  加藤は頭のてっぺんがいたかった。頭のてっぺんに血が登りつめて、そのあたりが破裂でもしそうに痛かった。彼は、机にかじりついたまま、こきざみに|身体《か ら だ》を震わせていた。 「加藤君、これからも君はちょいちょい山へひとりででかけるがいい。|誰《だれ》もいない山の中での考えは、純粋であり、しかも飛躍的なのだ。な、加藤君、会社の休暇が許される範囲で、これからは堂々と山へ行くがいい」  加藤は、そのことばに何度かおじぎをして、顔を上げた。自分のことのように喜んでいる外山三郎の背後に、影村の赤く濁った眼が光っていた。  二月になると加藤は八日間を費やして|鹿《か》|島《しま》|槍《やり》から|後立山《うしろたてやま》縦走に入っていった。そして加藤は、それだけでは満足できず、その足で富山へ行き|藤《ふじ》|橋《ばし》から剣岳、立山をめざしての十日間の単独行をした。有給休暇を超過して山へでかけられたのは、立木勲平海軍技師の口添えがあったからである。 「思う存分冬山を歩きました。今年はもう山へはいきません」  加藤は山から帰って来るとそういった。加藤が山から帰って来ると、新聞記者が待っていた。 (加藤文太郎、またまた冬山単独行の記録樹立か)  というようなセンセーショナルな見出しで、彼の山行の概要を報じた新聞があった。新聞記者|嫌《ぎら》いの加藤が逃げ廻れば、逃げ廻るほど、新聞は彼を追った。  新聞ばかりではなく、彼の単独山行について、あらゆる山岳会が注目した。加藤の山行記録が掲載された山岳雑誌は、若い社会人登山家たちに愛読された。加藤の名声と反比例して加藤の陰口も多かった。 (加藤文太郎はラッセルドロボウである。ああいう登山ならだれにでもできる)  文章にこそ書かないが、そういうことをいいふらすものがあった。彼の山行記録のなかには、他人のラッセルの跡を踏んだことは何回かあった。しかし、それは彼の記録のなかのほんの一部であった。ラッセルドロボウとは悪意に満ちた中傷だった。  なにもいわず、たったひとりで、足音も立てずに、迫って来る、社会人登山家加藤文太郎の存在は、それまで日本の山を特権階級の私物として考え、山小屋も、案内人も、すべてこれらの山の貴族たちの従属物であるかのごとき誤った考えを持っていた、一部の登山家たちにとっては、|眼《め》|障《ざわ》りだった。  山の特権階級は加藤文太郎のあら探しを始めた。加藤文太郎の山行記録にいつわりがあるなどと、ある山岳会の席上で発言した者もあった。加藤が真川から大町までの厳冬期単独行の中で、ひとつひとつの山の頂上を意識して踏んでいき、この記録を書き残したのはこのような中傷に|応《こた》えるためであった。  加藤文太郎は、山の特権階級に|挑戦《ちょうせん》するために山へ行くのではなかった。記録を作るためでもなかった。彼はいまや山そのものの中に自分を再発見しようとしていたのである。ヒマラヤという実質的な目標があったが、ヒマラヤだけが加藤のすべてではなかった。  加藤は山に恋していた。山に敬服していた。そして彼は、その山を、時としては敵として戦った。  加藤はつねにひとりであった。 (加藤は人間ではない。およそ人間としては考えられない行動を取っている。野獣が、雪の中に平気でいられるように彼自身もまた野獣に近い人間である)  といったふうなことをいう者もあった。  加藤に山の中で会ったという話はいくつか語られた。|大《おお》|雪崩《な だ れ》のあとから、|悠《ゆう》|々《ゆう》と|這《は》い出して、雪をはらって、そのまま山へ登っていったとか、厳冬期の真夜中に、前穂稜線を歌を歌いながら歩いていたというふうな伝説に近い話がまことしやかに|喧《けん》|伝《でん》された。  加藤に対する評価がなんであっても、加藤は黙っていた。 (加藤という男は神戸のある造船所の一介の製図工である。冬山へいきたくとも、案内人を雇うだけの金がないから単独行をするのである。登山用具も買えないからすべて手製である)  というふうな筆法で加藤を評した登山家があった。そう書いた人が山岳界において、かなりの位置にいる者であったから、そのことは真実として伝えられた。 「一介の製図工とはなんだ。加藤文太郎は、たしかに研修所時代には製図工としての訓練を受けた。だが彼は、技手となり、設計を担当している。加藤は優秀な技術者だ。加藤が考案したディーゼルエンジンのシリンダーの改良案が製作会議を通過すれば、おそらく彼は技師になるだろう。伝統ある神港造船所の技師といえば、機械設計技術者にとっては最高に近い地位である——それを一介の製図工とは……」  外山三郎は、その山岳雑誌を手にして怒った。 「一介の製図工で結構ですよ。貧乏人で結構ですよ」  加藤は、そういうことは一向気にしなかった。 「しかしな加藤君、君もそろそろ結婚してもいい年だ。もう少し服装のことを考えたらどうかな」  外山三郎は加藤が貯金していることを知っていた。その貯金がかなりの額になっていることも想像できたが、それがヒマラヤへ行くための貯金だとは知らなかった。 「貯金をすることはいいことだ。しかしね加藤君、そのために若い時代の生活を犠牲にすることはないだろう」  外山三郎は、加藤がケチだとは思いたくなかった。|守《しゅ》|銭《せん》|奴《ど》ではないことがわかっていた。それなのに、加藤が、なぜ貯金に熱を入れているかわからなかった。それだけが、加藤の中の未知の世界だった。 「きみは、いまだに、ナッパ服しか着ていない。そういうところが、一介の製図工というふうに誤解されるもとになるのだ」  それでも加藤は、いっこう平気な顔でいた。外山三郎のいうことを聞きながら、おれだって背広ぐらいあるんだと思っていた。園子と会うために買った背広があるが、着ないで押入れにしまってあった。  園子のことは、ときどき加藤の頭の中に浮び上って来ることがあった。なぜ園子は突然、神戸を去ったか、彼女を神戸から追出した原因が佐倉秀作にあることはわかっていても、その真相は知らなかった。  園子から電話があったのは、八月の終りだった。電話がかかって来たのは、昼食時間で、加藤は、いつものように、彼の仕事場でディーゼル機関の本を読んでいた。 「加藤さん、あなたのお名前、新聞で拝見しましたわ。一度御連絡しようと思っていましたけれど——」  園子は以前と同じような明るい声をしていた。 「神戸にいるのよ。|三宮《さんのみや》の駅の近くに働いているのよ」  働いているということばが、その後の園子のあり方を示しているように思われた。園子は、彼女が働いている喫茶店の名前を教えたあとで、 「|小《お》|父《じ》様にはだまっていてね」  と念をおした。  加藤は|躊躇《ちゅうちょ》しなかった。その日仕事が終ると、いつものようにルックザックは背負わずに、走るようにして下宿に帰ると、背広服に着替えて、夜の町に出ていった。  ベルボーという喫茶店はすぐわかった。園子はそこのカウンターにいた。彼女は変っていた。髪の形も、化粧の仕方も、服装も変っていた。そこにいるのは前の園子ではなく、飾り立てた園子だった。美しく見えたが、それは、装ったものであって、本来の彼女の美しさが失われたものであることに気がつくまでには、そう時間はかからなかった。加藤はややたじろいだ。彼女の変り方よりも、一年の間に彼女が歩いた道を|覗《のぞ》こうとして、彼は声をひそめていった。 「どこにいっていたんです」 「案外、近いところにいたかも知れないことよ」  園子は笑った。笑うと、白い糸切り歯が見えた。それだけは昔のままだった。 「店が終るのは十一時、それからあとしまつをして帰るのが十二時ごろ、だから——」  園子はあたりを気にするように見廻してから、 「あさっての日曜日の朝、お会いしましょうね、場所は……」  客が来たので加藤はそこに突立っているのもおかしいから、奥へいって席に|坐《すわ》った。加藤は飲みたくもないコーヒーを飲みながら、喫茶店というものをしみじみと観察した。客は二十人ほどいた。サービスのための女の子が三人いたが、多くは部屋の|隅《すみ》に壁の花のように突立っていた。時には客のところにいって、ふたことみことしゃべっては引きかえすといったようなことを繰りかえしていた。客は若い男だけで、坐ったら、そう簡単には動かず、飲みかけのコーヒーを前にして、やたらに|煙草《た ば こ》をふかしていた。男が新しい煙草を口にくわえると、立っている女はそこへ直行してマッチをすった。そのときを|狙《ねら》って、男は、短いことばを吐いた。女の|眼《め》がそのたびに光った。  その喫茶店へやって来る男たちは、三人の喫茶ガールを張りに来ていることは明らかであった。二十人ほどの客の中には、明らかに、やくざ風の男もいた。  一時間も坐っていると、その喫茶店へやって来る客の中の幾人かは、カウンターに坐っている園子を目当てにしていることがわかるようになった。彼らは、チャンスを作るのがうまかった。園子の坐っているカウンターのそばには電話機と電話帳があった。園子に近づこうとする男は、電話をかけるようなふりをしながら園子と話した。やはり短い、要領のよいやりとりだった。それらの男に園子がいちいち微笑を持って答えているのを見て、加藤は、つきとばされたような思いにさせられた。  加藤はそれ以上喫茶店にいることができなかった。居るべきところでもないと思った。彼はカウンターへ行って黙って財布を出した。園子は笑顔で、またいらっしゃいといいながら、マッチをくれた。そのマッチの上に鉛筆で、今度の日曜日、九時、高取山神社前と書いてあった。  高取山の石段を加藤は走って登った。園子は来ていなかった。加藤は石段を二往復した。  園子は約束の時間よりも三十分おくれてやって来た。待たせて悪かったとはいわなかった。遅刻の三十分は予定のなかに繰りこんでいたような顔だった。園子はまず化粧を直した。そして、眼を海に投げて、 「船がたくさん出ていくわ」  といった。外国航路の船が三|隻《せき》、煙を吐いて港を出ていくところだった。 「加藤さん、外国へ行ってみたくない?」  園子は、いささか気になるほどの短いスカートを|穿《は》いていた。 「それは行ってみたいさ」  ヒマラヤへ出かけるときには、ああいう豪華船に乗ってでかけるのだと加藤は考えていた。 「行ってみたいだけではなく、私は行くつもりよ」  園子は加藤を誘ってベンチに腰かけると、 「変ったでしょう」  と自分のことをいった。 「べつに……」  変ったというのが悪いような気がしたからだった。 「なぜ変ったか聞きたくないの加藤さん」  園子はからかうような眼で加藤を見ると、 「要するに私はしたいことをしたくなったのよ。それが私の運命なのよ」  園子はそういって笑った。笑いの中に、暗い|翳《かげ》が走ったが、さりげなくやり過すと、 「私というものを、ほんとうに理解していただくには、私の出生の秘密を話さなければならないわ。つまり私は、正当でない結婚の中に生れた子供というわけ。よしましょうね、こんな話」  加藤はその先が聞きたかったけれど、 「神戸にはいつ来たの」  ありふれたいい方をした。 「そう、去年の夏ごろからかしら、——舞い|戻《もど》って来たのよ。神戸は私にとって、執着に値するところだからよ」  園子は|真《まっ》|直《す》ぐ前を向いたまま、 「私は過去のことは過去のことだと、簡単にあきらめることができないのよ。だから神戸に帰って来たのかも知れないわ」  あきらめられないそれが、なんであるかは加藤にはわからなかった。だが、加藤には、園子の口ぶりで、あきらめ切れないものが、彼女の愛情問題と関係あることだけは想像できた。 「あの喫茶店に勤め出して長いんですか」 「そうね、三つきかしら四つきかしら。はじめは手伝いということだったけれど、もう手伝いではなくなってしまったわ」 「たいへんでしょうね、夜おそくて」 「ちっともたいへんなことなんかないわ。ばかな男たちを相手に、コーヒーを売っていればそれでいいのですから」 「ばかな男たちのなかには、ばかでない男もいるでしょう」 「おりますわ。十一時までねばって、私をアパートに送るんだときかない男や、しつっこく手紙をよこしたり、おつりを受取るふうをして、私の手を握ったり」 「やめたらいいでしょう、そんな不潔なところ」  加藤は怒りを顔に出していった。 「不潔なところかしら。それなら、うちの店へ来る客はみんな不潔ということになるわけね」  園子は声を上げて笑った。園子の笑い方がおおげさだから、となりのベンチにいた家族づれが、こっちを向いた。 「なにがおかしいんです」 「そういうことだと、あなたの友人も不潔になるからなんですわ」 「ぼくの友人?」  友人の|誰《だれ》かが、ベルボーへ行くのだなと思った。誰だろうと考えてみても、わからなかった。 「名前はその友人の名誉のために伏せておくことにしましょうね」  園子は、そこで大きな|欠伸《あ く び》をした。加藤と高取山で落ち合ってはみたが、一時間もしないうちに退屈してしまっているような|仕《し》|種《ぐさ》だったが、加藤は、その園子を退屈でないようにしてやる方法を知らなかった。 「歩きましょうか」  と加藤が誘っても、園子は気乗りがしない顔をして、 「加藤さんは、まだもとの下宿にいらっしゃるの」  と話をはぐらかした。 「そうです。ずっとあの下宿です」 「一度行ってみたいわ」 「きたないところだけれど、よかったら——」 「そう、じゃあこれからお伺いしようかしら」  園子は|椅《い》|子《す》から立上った。  加藤は、意外な結果になったことを、半ば悔いていた。女性を彼の下宿に伴っていくなどということは考えてもみなかった。園子の方からいいだしたことであっても、なにか、その裏にあるようにも思われた。加藤の下宿を見たいということは、加藤の生活にふれたいということであろうか。園子が加藤をいまもなお、結婚の対象として、見ているのだとは考えられなかった。 (園子の気まぐれかも知れない)  そう思えば気楽だった。  加藤は園子と肩を並べて高取山をおりた。園子がタクシーを拾った。あっという間にタクシーを拾って、さっさと乗り込んでから加藤を招いた。  加藤は神戸市内をタクシーで通るなどということをしたためしはなかったし、隣に坐っているのが女性だということも、加藤にとって薄気味悪いほど、おかしなことに思えてならなかった。  タクシーは加藤の下宿の近くで止った。  玄関を開けると、子供を背に負った、金川しまが立っていた。どこかに、買物にでも出ていきそうな格好だった。  しまは加藤とともに入って来た園子に、無意識に軽く頭をさげた。園子はやや尊大にかまえていて、ちょっと|顎《あご》を引いただけだった。  しまは園子になにかいいたげだったが、なにもいわずに、園子のすべてを見て取ろうとするように鋭い視線を注いでいた。そばにいる加藤の存在は無視していた。しまは、いきなり、そこを訪れた、この家にふさわしからぬ派手な洋装をした女に、本能的な反発を感じているようだった。園子はしまの眼を平然と受けとめていた。挑戦に応じて動かない眼であった。視線は四つにからまって、ほどけなかった。どちらかが、眼をそらせないかぎり、永久に、眼と眼のたたかいは続くように思われた。戦う理由はなかった。ただそこで偶然会っただけのことなのだが、そのとき二人の女は敵視し合っていた。  しまが背負っている子供が、むずかり出した。しまは、首をうしろにひねって、いい子だねといった。つめたい眼と眼の|睨《にら》み合いのバランスがくずれた。 「お客様?」  と、しまは加藤にいうと、手に持っていた買物|籠《かご》をそこに置いて奥へ入っていった。  多幡新吉老人の|咳《せき》の音がつづけて聞えた。 「どうぞ」  加藤は園子を誘ったが、園子は、そこからすぐ二階へつづく階段へちょっと眼をやったままで、すぐその眼を、しまの入っていった奥の方へ投げた。  しまの出て来るのを待っているようだったが、しまは二度とは出て来なかった。 「私帰るわ」  園子がいった。 「どうしたんです、園子さん」 「私はしたいことをするために神戸へ帰って来たんだって、さっきいったでしょう——私は帰りたくなったのよ。さよなら」  園子は身をひるがえして外へ出ていった。園子の|靴《くつ》の音がしばらく聞えていた。      2  加藤の部屋には鏡がなかった。鏡が必要なときは階下におりていって洗面所の鏡に向えばいい。そこには古ぼけた鏡が置いてあった。鏡の面の数分の一は、|硝子《ガ ラ ス》の裏に塗ってある水銀がはげて、鏡の役はなさなくなっていた。そういう鏡なのに、水島商店という字だけがはっきりと残っていた。水島商店などという名は、この近所では聞かない名前であった。おそらく、その鏡は、この家が建てられた当初に、どこからかもらい受けたもののように思われた。  加藤は、|剥《は》げちょろけの鏡の前に立って、ネクタイを結んでいた。加藤にとって、苦手のひとつは、このネクタイというしろものだった。|紐《ひも》を首にひっかけて、|喉《のど》のところで結ぶなどという西洋の風習を|呪《のろ》いながら、彼はネクタイを結んだ。自分自身で首をしめるような行為が、人間の作法につらなっていることに彼は疑問を感じた。ネクタイはうまく結べなかった。どうやら結べても、両端の長さが合わなかったり、結び目が大きすぎたり、小さすぎたりした。ネクタイ結びに苦心していると汗が流れ出てくる。汗はワイシャツの|襟《えり》を|濡《ぬ》らした。 「加藤さん、おめかしね」  金川義助の妻のしまが鏡を|覗《のぞ》きこんでいった。 「男にもおめかしがあるのですね」 「それはありますよ。男の人だって、俳優さんなんかは、舞台以外でもお化粧しているっていうでしょう」 「そうですか」  加藤は鏡に写るしまの顔が、病的にまで|世《しょ》|帯《たい》やつれしているのを|眺《なが》めながら、|女房《にょうぼう》子供をほったらかして、行方をくらましている金川義助のことをふと思った。 「あのひとに会いにいくのでしょう」  としまがいった。  あのひとといわれても加藤には誰のことをいっているのかすぐにはわからなかったが、 「でも、きれいなひとね」  としまがつけ加えたので、彼女がいっているあのひとというのは、園子に違いないと思った。しかし、|讃《ほ》めるなら、�きれいなひと�でいいのに、�でも�といったのは、しまが決して園子を率直に美しいと讃めているのではない証拠のように思われた。 「そうではない」  加藤はふりかえっていった。ネクタイはどうやら結ばれていた。 「いいのよ弁解しないでも。加藤さんだって、ひとりやふたり、女のお友だちがあったって少しもおかしくはないことよ」  そして、しまはつめよるような眼をして、 「なんていうひと」  と名前を聞いた。失礼ないい方だったが、その失礼さを少しも意にかけていないようだった。当然聞く権利があって聞くのだというふうないい方だった。 「先月、ちょっとだけ、ここへ顔を出したことのある園子さんのことをいっているのですか」 「園子さんというのね」  園子さんとしまは、覚えこむように、二、三度口の中でつぶやいてから、 「あのひとの眼は、わたしきらいだわ」  といった。おかしなことをいう女だと思った。しまがなぜ、園子に関心を持つか加藤にはわからなかった。女性同士の反発感情として簡単に割り切れるものではなかった。 「あの女の眼は陰険だわ。なにかたくらんでいる眼だわ」 「園子さんの眼がどうだって、あなたに関係はないでしょう。それこそ余計なことだ」  加藤は不満を顔に出した。 「余計のことかも知れませんけれど、私は加藤さんに忠告したいのよ。あの女はよくない女よ」  加藤はそれ以上、しまと話しているのがいやになった。しまはどうかしているのだ。偶然のように現われた園子に敵対感情を持つ理由はなにもなかった。しまは生活に行き暮れて、いささか神経過敏になっているのだ。 「金川君からその後なにか連絡がありましたか」  加藤は話題をかえた。 「ぜんぜんありません。生きているぐらいのことを知らせてくれたってよさそうなのに、なにひとついってはこないんです。あのひとはもうここへは帰らないかも知れません」  金川のことを聞かれると、しまは急に全身から力が抜けたように肩をおとして、ほとんど、反射的と思われるほどの速さで眼に|泪《なみだ》を浮べた。 「私のことはどうだっていいんですけど、坊やのことが……」  しまは、エプロンの端を眼に当てた。  玄関を開ける音がして、加藤さんいらっしゃいますかという若い男の声が聞えた。加藤はほっとした。しまに泣きつかれたらどうしようと思っていた矢先だった。  宮村|健《たけし》が玄関に姿勢を正して立っていた。 「お迎えにあがりました」  宮村がいった。 「お迎えに?」  加藤は耳|馴《な》れないことばを聞くような顔をした。 「今日の講演の図表類でもあるかも知れないから、迎えに行けと志田さんにいわれました」  志田|虎《とら》|之《の》|助《すけ》がいったにしても、お迎えにあがりましたというのはおおげさだった。 「図表はあるが、たたんで持っていけるものばかりだ。わざわざ迎えに来てもらうほどのことはなかったのに」 「しかし、私は迎えに来てしまったんです」  宮村健は子供っぽい|風《ふう》|貌《ぼう》を持っていた。声までが、少年のようだった。迎えに来てしまったんです、といって|毬栗頭《いがぐりあたま》に手をあげる格好も少年だった。宮村はナッパ服ではないが、ナッパ服に似たようなものを着ていた。おそらく、どこかの古着屋からでも探しだしたような、上下の色が、いくらか違った作業服だった。 「工場に勤めているのですか」  歩き出してすぐ加藤は宮村に聞いた。 「会社の事務所の方をやっています。ぼくは商業学校出ですから工場の方はだめなんです」  宮村健は大型封筒に入れた加藤の図表類を、しっかりとかかえこんでいた。 「さっき、講演といったが、きょうの会は講演というほど大げさのものではない。集まる者だって、せいぜい二十名ぐらいだろう」 「でも、講演には違いないのです。講演が一時間、座談会が一時間か二時間、みんなは、その座談会のほうに、期待をかけているようです」  そういってから、宮村は、ああそうだ、座談会のお茶菓子を買って帰るように志田さんからたのまれた、とひとりごとをいった。  日が頭上から照りつけていた。加藤は、カンカン帽子を取って、額の汗を|拭《ぬぐ》いながら、 「この暑さにお茶菓子でもないだろう」 「はい私もそう思います。だが志田さんはお茶菓子を買ってこいといいました」 「|西瓜《す い か》を買っていこう」 「西瓜ですか」  宮村健が、それにしては、志田虎之助にもらった予算がたりないというふうな顔をするのに、 「おれが金を出す。でっかいのを四つばかり買っていって、冷やして置いたらいいだろう」  そのとき加藤は、しばらく前に外山三郎に、金を|貯《た》めるのはいいが、他人にケチだといわれるようなことはするなといわれたことを思い出していた。ヒマラヤ貯金のことを外山三郎さえも知っていないということは愉快でたまらなかったが、ケチだといわれるのはいやだった。加藤は八百屋を見つけて入っていった。四個の西瓜をふたりでひとつずつ両手にさげていこうという加藤の主張をはねのけて、宮村健は二つずつ別々に包んだ西瓜を両手に|携《さ》げてふうふういいながら歩いていた。加藤は、いまさらのように宮村健という男を見直した。 「ねえ加藤さん」  宮村は坂道を登りつめたところでひといき入れながら加藤にいった。 「今年の冬にはひとりで八ヶ岳へ入ろうと思っています」 「ひとりで八ヶ岳へ」 「はいそうです。地図遊びは、終りました。夏山もほとんど歩きました。|須《す》|磨《ま》から|宝塚《たからづか》まで縦走して、その日のうちに、神戸まで歩いて帰るのも、そうむずかしいことではなくなりました。一応、歩く基礎はできましたから、今度は冬山に入ろうと思います」  加藤は驚いて、宮村健の顔を見た。いつか志田虎之助が、宮村という男が、加藤の|真《ま》|似《ね》をして、地図遊びをやっているといったことがあったが、その地図遊びが、冬山単独行にまで延長されているとは知らなかった。 「ぼくは加藤さんの歩いたあとを一生懸命歩いているのです。いつかは追いつけると思っているのですが、加藤さんは私を待っていてはくれずに、どんどん先へいってしまいます」  宮村が笑った。  加藤はその話をけっして快く聞いてはいなかった。他人に尾行されているようで、いやな気持だった。宮村がなぜ、加藤のあとを追うつもりになったのかも、理解に苦しむことだった。 「ほんとうに加藤さんは偉い人だと思っています」 「偉い人だって」  加藤は不思議なことばを聞くような顔をした。 「なぜおれが偉いのだ」 「加藤さんは、日本における単独行の第一人者です。日本の山岳界に活を入れた登山家なんです。関東の山岳会の|奴《やつ》らに頭をさげさせようとしている偉大なる実践者なんです。山はおれたちだけのものだと思っている特権階級から山を取りもどそうとしているわれわれ庶民の英雄です」  宮村はその英雄のためにひと働きしている光栄に胸をわくわくさせているようだった。加藤はあきれた。宮村の心情を疑った。そして彼は宮村のいった英雄ということばに焦点を当てた。宮村がしゃべったことも、いまげんに、しゃべりつづけていることも耳に入らなかった。英雄という字が頭の中で|膨張《ぼうちょう》していき、その字が支え切れないほど重くなって、|雪崩《な だ れ》のように彼におおいかぶさって来た。 「きみはなにか、たいへんな思い違いをしているようだ。きみの心の中には自分勝手な英雄像がつくり上げられているようだ。そういうふうな眼でおれを見ているかぎり、きみはいっぱしの登山家にはなれないぞ。英雄の存在するかぎり、その英雄の踏み台になるものが必ずある。だからおれは英雄というものが好きではない。おれはひとりが好きだから、ひとりで山へでかけていくだけの話なんだ。おそらくきみには、おれの気持がわかるまい。おれが山へいくほんとうの気持もわからないで、おれの真似をすることはきわめて危険なことなのだ。やめたまえ、ひとりで冬山へ入るなどというばかげたことは、やるものではない」  加藤はかぶさりかかって来た英雄をはねのけると、それ以上、宮村健にいってやるべき言葉を見失ったように、しばらく、宮村健の顔を見ていたが、彼が宮村健にいってやったことがもしかすると、自らを英雄の座に置いての上の発言のように思われはしないかと心配になった。偉いといわれたいために偉くないのだと、見せかけだけの謙虚さを、示しているのだと思われたくはなかった。  加藤は内省した。言葉に出さずに、彼の困惑と|自嘲《じちょう》が、彼の表情に、彼らしい皮肉と哀愁をこめた微笑となって動いていった。 「すみませんでした」  宮村健は率直に謝った。両方の手に、重い西瓜を|携《さ》げたままで、すみませんとおじぎをする宮村の格好はふきだしたくなるほどおかしかった。  加藤は宮村健を心の中で許していた。  黙って歩いていると、汗が気になった。山を歩いているときはちっとも汗が気にならないのに、町を歩いていると汗が邪魔になるのはネクタイのせいだと思った。彼はこのわずらわしいネクタイを取りたかった。山の話だから、登山姿で会場に出ても、さしつかえがないことだし、むしろその方が喜ばれるだろうと思っていながら、窮屈な背広にネクタイをつけて来たのは、やはり世間の|噂《うわさ》を気にしだしたのだろうか。  一介の製図工というふうな中傷と|侮《ぶ》|蔑《べつ》に満ちた言葉を登山家の一部が彼に投げつけていることに対するレジスタンスがこういう、窮屈きわまる格好となって表面に出たのだと思うとばかばかしくもなる。  そんなとき加藤は自分を投げ出したくなるほどいやだと思った。ほんとうはそっとして置いてもらいたかった自分が、いつの間にか、そうしてはおられなくなったことがいやでたまらなかった。 (ひとりで山を歩くことが、なぜそれほど問題になるのであろう)  海の見える|館《やかた》の前には神戸登山会の会長の梅島七郎が立っていた。 「いやあ、ごくろうさんだね加藤君」  梅島七郎はそういってから、ごくろうさんということばを、四つの西瓜を、汗みどろになって携げて来た宮村健の方にかけてやるべきだったというふうな顔をした。梅島七郎は、背中まで汗が通っている宮村健のナッパ服に眼をやって、 「たいへんだったろう」  とひとこというと、かえす眼で加藤のカンカン帽子から背広服姿をじろりと眺めおろして、ピカピカに|磨《みが》いた|靴《くつ》|先《さき》に止めた。  梅島七郎の眼の中には、明らかに批難の色が浮んでいた。重い西瓜を宮村健ひとりに持たせた、加藤の非常識と冷酷さをなじっているようだった。  加藤はその眼に眼で|応《こた》えただけで、口ではなにもいわなかった。いっても|無《む》|駄《だ》だと思った。 「加藤君もこのごろはすっかり偉くなってしまったな」  梅島七郎は加藤と肩をならべて階段を登りながらいった。 「ちっとも偉くなったとは思いませんが」 「君はそう思わなくても、世間では、そう思っている。今日だって、二十人の予定が、四十人になった。西瓜は四つでは足りそうもないな」  梅島七郎は西瓜にこだわっていた。 「足りなければ、あなたがお買いになったらいかがですか。ぼくは二十人だというから四つもあればいいと思ったんです」 「すると、あの四つの西瓜はきみが買ったというのか。君が買って宮村に持たせたというのかね」 「ぼくが買いました。ふたりで持とうというのに、彼はどうしても、自分で持っていくといって聞かないから、彼に持ってもらったんです」 「彼は君の崇拝者の一人だからな、そうもしよう。山の英雄ともなれば、黙っていても、子分のひとりやふたりは向うからやって来る」  加藤は階段の途中で立ち止った。加藤が怒ると口をとがらせる。なにか、はげしいことばをいおうとして、がまんしていると、|顎《あご》を少々前に出すくせがでる。梅島七郎がいった英雄ということばが|癪《しゃく》だった。 「帰らしてもらいます」 「なに、帰る。どうしたんだね加藤君」  加藤が帰るといってから、梅島七郎は、加藤が怒っていることに気がついた。 「あなたが、この会の司会者だから帰るんです。不愉快なんです、ぼくは」  しかし加藤は、雄弁ではなかった。不愉快だという彼の気持を、梅島七郎に伝えることはできなかった。  志田虎之助がふたりの間に入った。加藤は志田虎之助のあとについて、会場から少し離れた廊下のすみに立って、海に眼をやった。 「海の見える|館《やかた》とはよくいったものだ。ここからは神戸の海が一目で見わたすことができる」  志田虎之助は海にやった眼を下へおとした。加藤の話を聞きに来たらしい人の姿が見えた。 「予定数をはるかに超過した。五十名は来るだろう。みんな君の話があるということを伝え聞いてやって来た者ばかりなんだ。どうだね。気分を直して、やってくれないか、きみがしゃべらないとなると、みんなはがっかりするだろう。梅島さんは、別に悪気があっていったのではない」  加藤はそれには答えず、黙って立っていた。  加藤は海の見える館を出た。梅島七郎や志田虎之助が夕飯でも食べにいこうと誘ってくれたが、用があるからとことわった。日曜日だった。なんの用もなかった。下宿に帰って、飯を食べて、山の本を読むくらいが用といえば用であった。  加藤は計画的に生活を規制していた。それは、彼が山にいってつねにそうであるごとく、下界においても、自分で作った規律に自分をはめこむということに、彼自身の人生を|見《み》|出《いだ》そうとしていた。だから彼にはつねにスケジュールがあった。レールの上を走らない日はなかった。それにもかかわらず、その日の加藤は、山の会に出席したあとの予定が|樹《た》ててなかった。山の会のあとの時間は|漠《ばく》|然《ぜん》と空けて置きたかったからであった。  彼はなにかのきっかけを待っていた。きっかけによっては、きわめて無作意な、日曜日の後半を過してもいいと思っていた。朝から漠然とそんな考えを持っていた加藤は、山の会が終ると、まったく、勝手|気《き》|儘《まま》な方向に歩き出したのである。  彼はかなりの速足で海の見える館をあとにした。他人に話しかけられたくなかった。彼は窮屈きわまる午後の山の会のことを一刻もはやく忘れたかった。加藤はしばしば壇上で立往生したことを思い出した。答えられないのではなく、あまりばからしい質問だから答えなかったのである。  ばからしい質問は座談会になるともっと増えた。同じことを二度も三度も質問された。一対五十では均衡を欠いていた。加藤はつねに口を開いていなければならなかった。  加藤は、二度とこういう会には出席したくなかった。加藤が、つまらない質問を迷惑がったり、そういう質問には口をとがらしたままで答えなかったりするのが、そこに集まった山男たちに一種の感動を与えたようであった。加藤文太郎らしい|風《ふう》|貌《ぼう》だと、いささか彼を知っている者たちは、愉快がっていた。  加藤は足の向くままに歩いていた。とにかく歩けば、頭の中のもやもやしたものが|霽《は》れていくに違いないと思っていた。宮村健に呼びとめられたのは、かなり歩いてからだった。 「黙って|従《つ》いて来たんです」  宮村健は笑いながら、実は前に一度、好山荘運動具店のかえりに加藤さんの下宿まであとをつけたことがあったといった。 「子供だよ君は」 「子供かも知れませんが、ぼくは加藤さんのあとを従いて歩きたいのです」 「おれが本気になったら、きみには従いて来られるものではない」 「それはそうでしょう。でもぼくは従いていきます。ぼくは勝手に従いていきますから加藤さんは行きたいところに、どうぞ勝手に行ってください。ただ黙ってついていくのは気がひけますから、ちょっとことわっただけなんです」  宮村健は加藤のあとを従いて歩くのが彼の仕事のように、数歩うしろにさがったところでにやりと笑った。  加藤の歩調は変らなかった。振子の等速運動のように正確に足を運びながら、起伏の多い山手の方へ向っていった。坂を上るときも下るときも同じ速度だった。うしろをふりむかなかった。迷路へも入らなかった。ただ彼は人通りの少ない道をえらんでせっせと歩いた。宮村健がどこまで追従して来るかが楽しみだったが、おそらく宮村健が、追従できないで、|音《ね》をあげるのは、二、三時間後だろうと思っていた。  山王町から|祇《ぎ》|園《おん》町に出て楠谷町、再度筋町を通って|諏《す》|訪《わ》神社の近くまで来ると、加藤の足は急に速くなった。そして北野天神のあたりから南に折れると、そこからは三宮に向ってとっととくだっていった。北野天神まで来て加藤は三宮の喫茶店ベルボーにいる園子のことを思い出した。  目的がきまると加藤の足は速くなった。宮村健は追いつけなくなって走った。  喫茶店ベルボーに入ったとき、宮村健は苦しそうに呼吸をしていた。 「どうなさったの」  カウンターのそばに立っていた園子が加藤に聞いた。 「なあに、ちょっといきが切れたっていうだけのことさ」  園子は息を切らせている宮村健のために、コップに水をいっぱい|汲《く》んで、ボックスへやって来ると、 「ずいぶん走ったの」  応える前に宮村健はコップの水を飲みほして、 「加藤さんのあとを追って来たんです。加藤さんの足の速いこと、そのはやいこと……」  宮村健は腰につりさげている|手拭《てぬぐい》で汗を|拭《ふ》いた。 「山をおやりになるの」  園子は加藤に宮村のことを聞いた。 「宮村君はすでに立派な登山家だ」 「立派な登山家? いいえ|可愛《か わ い》らしい登山家だわ」  園子はそういって笑った。宮村は照れた。園子の方が、二つ三つは年齢が上だったが、可愛らしいといわれると、なんだか、からかわれたような気がした。 「加藤さんにくらべたら、まだまだ|僕《ぼく》の登山は可愛らしいみたようなものだ」  宮村の呼吸はやや整っていた。 「いいえ、あなたの登山のことをいっているのではないわ。私はあなたが可愛らしいといっているのですわ」  園子は真紅のワンピースを着ていた。左手を宮村健の|坐《すわ》っているソファーに置いて、やや前かがみになって話す園子を見上げると、|喉《のど》のあたりから、ふくよかな|頬《ほお》のあたりにかけての白い線がまぶしかった。宮村健の胸が鳴った。 「いいんですか。こんなところで油を売っていて」  加藤が園子にいった。喫茶店はかなり混んでいた。 「カウンターの方に来た女の子が、どうやら間違いなくやれるようになったから、私はこうやって、なんとなくぶらぶらしていればいいのよ」  園子は笑いをたえず忘れなかった。 「マネージャーってわけですか」 「表面的にはそう見えるでしょう。事実は、女の子が注文を聞き違えたときに、おわびに行ったり、しつっこく女の子に話しかける客を適当にあしらったり、顔でコーヒーを飲もうという男をとっちめたり……」 「そんな男がいるんですか」  宮村はびっくりしたような顔であっちこっちを|眺《なが》めまわした。 「ここは三宮よ。そういう人がいたって不思議はないでしょう」  園子は、ちょっと、と加藤にことわって、カウンターのところに行ったり、客の間を行ったり来たりしている女の子になにかいったりしてから|戻《もど》って来ると、宮村健のとなりに坐った。 「この前、加藤さんの下宿におうかがいしたとき、玄関で会った女の方……ほら、赤ちゃんを背負っていた|女《ひと》……」  園子は両手を組み合せていった。マニキュアした|爪《つめ》が光っていた。 「ああ、金川君の奥さんでしょう。しまさんっていうんです。しまさんがどうしたんですか」 「こわい|眼《め》つきで私を|睨《にら》みつけていたわ」 「ついぞ見かけない|女《ひと》が現われたからびっくりしたんでしょう。あの|女《ひと》は緊張したときはあんな眼つきをするんです」 「なんで緊張する必要があるんでしょうか」 「さあね」  加藤は返事を宙にほうりあげておいて、今朝下宿をでがけに投げかけて来た、しまのことばと、いま園子がいったこととをいっしょにして考えた。ふたりの女のことばが空間でからまり合った。 「しまさんのことなんかどうだっていいんじゃあないですか」 「そう——どうだっていいことね。ただ、あのひとがへんにこわい眼で見たから、加藤さんのお部屋を拝見できずに帰ったのが残念だというわけ——おわかりになって」  園子はさっと立上った。園子が立上ると、香水のかおりがあとに残る。 「すごいんですね加藤さん」  園子が去ってから、宮村健が、ひどく感激したようにいった。 「なにがすごいんだ」 「あんなきれいな|女《ひと》を知っている……しかも彼女は加藤さんの下宿にまで来る……」  加藤は宮村健に園子のことをどう説明してやったらいいかわからなかった。確かに、その喫茶店では、園子は圧倒的に美しかった。だがその美しさは、彼女が、外山三郎の家にいたころのういういしい美しさではなかった。彼女自ら、変ったでしょう、といったように、彼女のどこかには、くずれた美しさが見えていた。加藤はそのくずれたものにこだわった。外山三郎の二階にいて、よく歌っていたころの彼女でない彼女に、そのときと同じような気持で接するわけにはいかなかった。佐倉秀作との間になにかがあってから、彼女は変ったのだと加藤は思っていた。 「園子さんは、ぼくの上役の知合いなんだ。上役の家へ行ったとき紹介されたというわけさ」  加藤は上手に逃げた。それ以上のことを宮村にいう必要はなかった。  喫茶店を出るとき、園子はカウンターのところに立っていた。 「いいのよ、加藤さん」  園子は財布を出した加藤の手をおさえこむようにして、小さな声でいった。カウンターの女の子は知らん顔をしていた。 「宮村さん、またいらっしゃいね。可愛らしい登山家がこのつぎ来るまでに、山の写真を用意して置きますわ」  園子は宮村に|愛嬌《あいきょう》をふりまいていた。  喫茶店から明るいところに出ると、宮村健は夢から覚めたような顔でいった。 「園子さんてすばらしいひとだ」  宮村は上気した顔をしていた。  加藤はその宮村を見ていると、園子について、間接的に教えられているような気がした。園子という女の外郭が|掴《つか》まえられそうだった。掴まえても、どうにもならぬほど遠くにいってしまっている女だったが、加藤にとって、やはり、眼をそらすことのできない、ひとりの女性だった。 「おいしっかりしろ、可愛い登山家」  加藤は宮村健の背中をどやしつけることによって、彼自身の混乱を、追払おうとしていた。      3  山における加藤文太郎が社会と接するのは、山からおりてはじめて新聞を手にするときであった。それまでの加藤は社会と隔絶していた。山には社会を形成する|片《へん》|鱗《りん》もなかった。雪と氷と岩と風とそれから加藤だけしかいなかった。そこで加藤はしたい放題のことをした。なにをしても彼をとがめるものはなかったし、吹雪が彼を死地に追いこもうとしても、彼を助けるものもいなかった。加藤は、そのすばらしいひとりの山のなかで勝手に歌い、しゃべり、食べて、寝て、下界へおりた。  昭和七年一月二十九日、加藤は松本駅で新聞を買った。八方尾根から後立山へ入って以来十二日目であった。  汽車は既にホームで待っていた。彼は買った新聞を持って座席に落ちつくと、|悠《ゆう》|々《ゆう》と開いた。新聞の活字がぷんとにおった。彼を社会へ引きもどすにおいだった。  彼が山へ入るとき——加藤が社会から一時的に離れるときもその門ににおいがただよっていた。|山《さん》|麓《ろく》を歩いているときにおって来る、あのにおいだった。四季によって、少しずつ違ったけれど、一般的には山のにおいとして彼を迎えた、雪のにおいもあった。雪の結晶が彼の|鼻《び》|腔《こう》を|衝《つ》くにおいであった。それは、|所謂《いわゆる》においではなかったかもしれないが、加藤は、雪のにおいを|嗅《か》ぎわけた。乾燥雪のにおいと湿潤雪のそれとははっきり違っていた。ひとたび大地に降りてから、風の誘惑に負けて飛び立つ|浮《うわ》|気《き》|者《もの》の飛雪のにおいと、吹雪のにおいとはまた別種なにおいを持っていた。  彼は新聞紙のにおいを嗅いだとき、ふと、しめり雪のにおいを思い出した。やっかいな、始末におえない、取りついたら離れない、あの雪のにおいだった。彼は、鼻をひくひくさせた、しめり雪のにおいは去り、そこには純然たる社会のにおいが残った。加藤は新聞を開 いた。 [#ここから1字下げ] 「|上海《シャンハイ》で|遂《つい》に|火《ひ》|蓋《ぶた》切らる!  電光石火の我が陸戦隊|一《いっ》|斉《せい》に|支《し》|那《な》街に進出  各所で市街戦展開」 [#ここで字下げ終わり]  彼は新聞を見つめたままでしばらく|茫《ぼう》|然《ぜん》としていた。とうとう海軍も始めたなと思った。昨年の九月に|柳条溝《りゅうじょうこう》で|勃《ぼっ》|発《ぱつ》した満州事変に引きつづいてなにかが起るだろうという|懸《け》|念《ねん》があった。それがいま上海に、現実となって現われたのであった。  加藤は新聞の全面をおおっている戦争の記事をあますところなく読んでいった。いつ発車したのか知らなかった。気がついたときには汽車は|塩《しお》|尻《じり》近くまで来ていた。 「えらいことになりましたね」  加藤の前に坐っている男が加藤の読んでいる新聞を|覗《のぞ》きこんでいった。土地の人らしい服装をしていた。 「いよいよ戦争ですな、でっかい戦争になりますよ」  男はそういうと、背を丸くして、額をぶっつけそうに寄せて来ると、 「近いうちに召集があるってことですよ」  といった。召集ということばは、加藤には聞きなれないことばだったが、そのことばをとおして加藤は、いまだかつて一度も経験したことのない遠い不安を感じた。それは加藤を目ざして直接にふりかかって来るものではなかったが、ちょうど夕暮れどきに、どこからともなくしのび寄って来る暗さのように、彼の力ではどうにもならないほど必然的なおしの強さでじりじりとやって来る黒い運命のように思われてならなかった。  神戸に帰ると、会社は、それまでになく緊張していた。神港造船所は海軍の動きに敏感だった。上海事変が起ると同時に会社の幹部は、次に来るべき、もっと大きな戦争に対して、受注の用意をはじめているようにさえ見えた。 「加藤君、きみにちょっと話したいことがある」  影村技師が退社時刻二十分前に加藤の机のそばに来ていった。話があるといってすぐ話さないのは、会社の用事ではないらしかった。影村は加藤の眼に同意を求めてから、一緒に帰ろうといった。  その日は二時間ほど居残りをした。加藤には残らなければならないほどいそぎの仕事はなかったが、彼の課の人たちが残っているからなんとなく残っていたのである。海軍が戦争を起した。われわれもじっとしてはいられないといったふうな空気があった。その空気をそのまま受け入れるには抵抗を感じたけれど、彼ひとりの単独行動もできなかった。  七時過ぎころ、影村技師が加藤の机のそばに立った。 「間もなく、ディーゼル機関全盛の時代が来る」  そして影村は、小さい声で、一緒に飯を食いにいこう、会社の門を出たところで待っていてくれといって離れていった。影村の誘いかけは一方的だった。加藤の了承は求めず、影村だけの都合でおしつけて来る命令だった。加藤は、不審と不満のごっちゃになった眼を影村の背に投げた。その向うの方で、課長の外山三郎が、最近、取りかえたばかりの金縁の眼鏡をかけていた。いままでかけていた|鼈《べっ》|甲《こう》|縁《ぶち》の眼鏡の方が外山三郎には似合った。金縁の眼鏡を掛けて仕事をしている外山三郎は年よりもいくぶん|老《ふ》けて見えた。  加藤は机の上を整理して立上った。部屋を出るとき、外山三郎の前で頭をさげた。そんなとき外山は、いつもなら、加藤の方を見て、ちょっと|顎《あご》を引くだけだが、その夜にかぎって、外山は金縁の眼鏡をはずして机の上に置いていった。 「もう少し待て、おれもそろそろ帰るから一緒に帰ろう」  加藤は困った。影村と約束があるというのが悪いような気がした。 「ほかに約束がありますから」  外山はほう、と驚いたような顔をした。 「約束か、加藤君も、楽しい約束をする年ごろになったというわけかな」  外山は笑って、金縁の眼鏡をかけた。加藤は外へ出た。かなり寒かった。星が出ていた。神戸の星は冬でも、いくらか|潤《うる》んで見えるのだなと、たいへん新しい事実を発見したようなつもりで空を見上げていると、影村に背中をたたかれた。  星を見てはいたが、足音には充分注意していたつもりだったのに、影村に肩をたたかれたのは、加藤にとってあまり、いい気持ではなかった。それは山で充分な注意をしていたのにもかかわらず、逆風の突風に足をさらわれて、尾根からころげ落ちたときの経験とよく似ていた。吹き飛ばされたと思った瞬間彼は心で身構えた。そして、彼の|身体《か ら だ》が雪面を滑り出すやいなや、彼はピッケルのピックを雪面に打ちこんで、その上に体重をのせかけるようにして、スリップを食い止めた。  影村は忍び足で近づいたのだなと加藤は思った。忍び足で歩くような男は彼は|嫌《きら》いだった。いつだって堂々と歩けばいいのだ。|靴《くつ》|音《おと》を立てて歩けばいいのだ。靴音を立てないような歩き方をする男は気が許せない。そんな気がした。加藤は影村に肩を|叩《たた》かれたとき、直観的にかまえていた。心のピッケルを雪面に打ちこんでいた。 「久しぶりだ、いっぱいやろうか」  と影村はいった。久しぶりにもなににも、影村といっぱい飲んだことはなかった。影村にかぎらず加藤は、課の人たちとは、課全体の忘年会、歓送迎会以外にはつき合ったことはなかった。加藤は本能的に酒を|嫌《きら》っていた。  影村は足音を立てないようにすっすっと歩いた。けっして遅くはなかった。加藤は影村の歩き方が、いつか神戸のオリエンタルホテルで見たボーイの歩き方に似ていると思った。  影村はタクシーを呼びとめて、加藤を先におしこむと、 「今年は去年より寒いような気がするが山はどうだ」  山のことなど、めったに口に出したことのない影村がそんなことをいうのも奇妙だった。影村が加藤をつれこんだ小料理屋の二階には、銅の|火《ひ》|鉢《ばち》が置いてあった。炭火がちょっぴり顔を出していた。銅の火鉢が、その部屋の中でもっとも豪勢なものに見えた。 「ここは、立木さんのお気に入りのところでね」  影村は料理を注文してからそういった。珍しい料理ではなかった。どこでも見かける日本料理の見本のようなものがそこに並んだ。電灯の暗いせいか、さしみが紫色に見えた。加藤は固くなったままで、影村がなんのために加藤を、この小料理屋へ呼んだのか、その魂胆を見抜こうとしていた。 「酒を飲むかね」  加藤は首をふった。 「感心だね。今の若い者にしては珍しい。酒もたばこも飲まない。君はもう二十七だ、二十七にもなって、女を抱いたことがないというのは天然記念物みたいなものだ」  影村は、|盃《さかずき》を女の前につきだしていった。女は笑った。三十をいくつか過ぎた、生活に疲れ果てたような顔をした女だった。 「勝手に飲むからいいんだ、加藤君は女が嫌いだし、ちょっと話があるんだ」  影村は女を遠ざけると、 「君が提案したディーゼルエンジンの改良案のことだがね、あれは会社で採用することになったぞ、立木勲平海軍技師の口添えもあった。もちろんあのままではいけないから、本格的設計は新しい課でやることになった」 「新しい課?」  加藤は内燃機関設計部第二課の課員である。第二課で考えたものを新しい課でやることはおかしいと思った。 「新しい課で製作図面を作るのですか」 「そうだ、第二課は、いまやっている仕事がいそがしいし、将来いそがしくなる可能性があるから新しい課へ|廻《まわ》すことになるのだ。実はその新しい課——つまり第三課が近いうちできて、その課長におれがなることになったのだ。これは内密なことだから、他人にいっては困る。それで実は君に話があるのだ。加藤君第三課へ来ないか。来てくれたら、ぼくも助かるし、君もよくなる。おそらく君は技師になれる」  技師——それは加藤に取ってヒマラヤと同じぐらいに価値の高いものであった。神港造船株式会社には学閥があった。学閥コースに乗ったものは、大学を出た翌年には技師になれたが、学閥コースを外れたものは大学出であっても数年ないし十年かかった。影村がその例だった。会社の研修所卒業生は高専卒と見なされていたから、技師になれる道はあったが、技師になれた人はいなかった。退職するとき技師になるのがいいほうだった。  加藤の頭の中で一介の製図工という文字と技師という文字が結びついた。  技師はすばらしかった。会社に技師はそう幾人もいなかった。技師になれば、設計企画に参加できるし、課長の|椅《い》|子《す》も待っていた。技師は、|彼《かれ》|等《ら》若い技術者の夢の城であった。 「どうだね加藤君、きみが第三課の方へ来て、君が考え出した、あの霧化促進の新機構のエンジンを完成すれば確実に技師になれるのだ」  加藤は黙っていた。あまり話がうますぎた。彼はいささか紅潮した顔で、さしみを一度に二切れ食べた。ヌルリとした感触が彼の|咽《いん》|喉《こう》|部《ぶ》を通過したとき加藤は、松本駅で、新聞を開いて、上海事変突発のニュースを見たときと同じような不安を感じた。 「どうかね加藤君」  影村は加藤の答えを待った。 「外山課長に相談して見ます」 「なに外山さんに」  一瞬影村の顔はこわばったが、その顔を無理におししずめるようにやわらげて、 「きみは外山さんと親しいからな、相談して見てもいい、だが加藤君、そうされた場合のおれの気持だって考えてくれないと困る。きみはもう立派なおとなだ、いちいち課長の意見を求めなくたっていい、自分のことは自分で決めていっこう差し支えがないのだ。それに、おれは間もなく第三課の課長だ、外山課長と同等な立場になるのだ。できたら、こういうことは他人には話さず、直接ぼくに返事して|貰《もら》いたい、外山さんにきみが話せば外山さんは、賛成することに決っているが、外山さんに相談して、外山さんが、そうしろといいましたから、第三課へ行きますということになれば、ちょっと待ってくれと、おれもいわねばならなくなるかも知れない。おれにも男の意地がある。第三課を作るのはこのおれだ。どこの課から|誰《だれ》を引張って来てもいいと、おれは部長の許可を得ているのだ」  影村はそこで話を切って、手をたたいて女を呼んで、熱い酒を持ってこさせた。 「少しぐらいはどうだ加藤君」  加藤は首をふった。 「だめか、酒は全然やらないというのか、しかしね加藤君もそのうち結婚式はやらねばならないだろう、そのときは酒を飲むだろう。そのときの用意にいっぱいだけつき合え、二はいとはすすめない」  影村は盃を加藤の手にわたした。むりにおしつけられたような格好で加藤は盃を持った。女が酒をついだ。加藤は水でも飲むように一気に酒を飲みほして、盃を|膳《ぜん》の上にふせた。 「ところで加藤君、そろそろ結婚の話があるだろう、誰かきまったひとがいるのか」  影村はかなり赤い顔をしていた。 「いや全然そういう話はありませんし、結婚する気もありません」  加藤はそう答えたとき、いつか浜坂であった黒曜石のように輝く|瞳《ひとみ》の花子の顔を思い出した。紫地に大きな白い花のとんだメリンスの|元《げん》|禄《ろく》そでの着物に黄色い三尺帯を胸高くしめた美しい花子の顔を思い出した。 「女より山の方がいいというのか、しかし結婚すれば、山より|女房《にょうぼう》の方がよくなる。そういうものだ、おれにまかせておけ、技師になって独身だというのもなんとなく格好がつかないからな」  加藤はつめたい夜風に当りながら歩いていた。  |御《ご》|馳《ち》|走《そう》になったという気分ではなかった。大きな容器に、少量の料理がつぎつぎと運ばれて来たところで、加藤にはそれが御馳走だとは思えなかった。加藤に取って御馳走は新鮮な魚を、思う存分食べることであり、山のにおいのぷんぷんする山菜で渋い茶を飲み、飯を食うことだった。浜坂の海辺に育ち、山を歩き廻っている加藤にとって、海と山に直結する料理こそほんとうの料理だと考えていた。  鮮度の落ちたさしみや焼き魚の味は、はっきりしたようでいて、なにかはっきりしないその夜の影村の招待そのものの味であった。|噛《か》みしめても味のない、それでいて、妙に満腹感を強制されたような御馳走だった。 「じゃあいいね」  小料理屋を出るとき影村がいった。それは第三課へ移ることに異存がないねという|駄《だ》|目《め》おしだった。そう感じたが、加藤にはいいとも悪いとも、もう少し考えさせてくれともいえなかった。影村は加藤の沈黙をオーケーと取ったようだった。  加藤は外山三郎にその話はしなかった。影村が加藤に対して誠意を持っていってくれる以上、やはり外山三郎にいうべきではないと思った。加藤は、そのことだけを幾日か考えた。技師の話がほんとうならば第三課へ行ってもいいと思った。新しい課が新設されれば、少なくとも三名の技師の定員は取れる。その中のひとりとしての可能性を吟味した。どう考えても無理なような気がした。影村がしてやろうといっても人事課の方でうんというかどうか分らなかった。技師になれないなら、第三課へ行くことはない。外山三郎のところにいたほうがいいのだ。  二月になると加藤は五日間の予定で、|槍《やり》ヶ|岳《たけ》を目ざして出かけていった。一月と二月の厳冬期の山で一年の休暇を取ってしまって、あとは会社を休まないという、加藤個人の習慣を外山課長にみとめさせてからは、二月になってすぐ彼が上高地へでかけていっても誰も文句をいわなかった。  加藤は神戸に帰ると、下宿へは帰らず、ルックザックを背負ったまま、|真《まっ》|直《す》ぐ外山三郎の家へいった。一番の汽車でついて、駅から外山の家までルックザックを背負って歩いて来ると、ちょうど人が起き出る時刻になった。列車の中で、ちぢこまっていた加藤の身体のしこりはほどよく解けた。 「はやいじゃあないか」  外山三郎はねぼけまなこで起きて来て、加藤を迎えた。加藤は上高地の常さんから買って来た外山三郎の好物の|岩《いわ》|魚《な》の|燻《くん》|製《せい》を出してなんとなく頭を|掻《か》いた。 「とにかくあがって朝食を一緒に食って会社へでかけよう」  外山は加藤を呼び入れた。 「久しぶりで山のにおいを|嗅《か》いだ」  外山はそういって笑った。山から帰って来たばかりの加藤は汗臭かった。そのにおいを外山は山のにおいといったのである。 「どうだった山は」 「相変らずです、ただ……」 「ただどうしたのだ」 「ただ、なんとなく、ここへ真直ぐ来たかったのです」 「虫が知らせたというのかね」  外山三郎が妙なことをいった。 「虫がですか?」 「そうだ、技師という虫が君につくかも知れないという知らせがあったのだろう」  外山三郎はうれしそうに笑った。 「加藤君の考え出した霧化促進の新機構は会社の幹部に高く評価された。それに立木海軍技師の推薦もあって、いよいよ会社では、あのエンジンの製造に乗り出すことになった。製造図面は第三課でつくる……」  外山三郎の|眼《め》が光った。加藤を見ている間ことばがとだえて、 「知っているだろう。既に影村君から聞いたはずだ」  加藤は頭をさげた。影村が外山に、あのことを話したのだなと思った。 「影村君が第三課の課長になることは内定している。そして君が第三課の技師になるのもまず確実だ。第二課には定員がないから、君にして見れば絶好のチャンスだ。影村君に引っぱられるまでもなく、こっちで推薦したいところだった」 「すみません、いおうと思っていましたが山へ行っちゃって」  加藤は逃げた。山へ逃げれば外山が許してくれるだろうと思った。 「いいんだ。なにもいちいち、おれのところに報告してくれなくても、きみ自身で、いいと思ってしたことならばそれでいい。だが加藤君、第三課へいくといままでのようにはいかなくなるかもしれない。技師になれば責任が生ずる、会社もいままでのように休むわけにはいかなくなる。それに影村君は……」  外山はそこで言葉をとめた。影村の、少しでも欠点になることはこのさいいうまいとおさえたのである。いわないほうがいいと、自分をおさえた外山は苦しそうな表情だった。 「山と技師とどっちが大事かね」  しばらくたってから外山は、急に思いついたようにいった。 「両方大事です」 「欲ばっているぞ」 「そうでしょうか、私はそうは思いません」  外山と加藤はしばらく顔を見合せていた。外山の顔の中に複雑な色が動いた。父親が子供を見るような、やさしさの中に、手放したくないジレンマが動いていた。 「きみがはじめて、ここへやって来たのはいつだったかな」 「大正十四年——そうです、あれからもう七年になります」  外山はうなずいた。七年間、彼の手元に置いた加藤文太郎を手放すことは外山にとってつらいことだった。それに外山は影村の性質を加藤以上に知っていた。影村という男は出世主義に徹した男だ。出世のためなら、なんでもやる男だ。上の人の|御《ご》|機《き》|嫌《げん》を取り結ぶことに|長《た》けた才能を持った男である。設計の腕より弁舌の腕を持った男であり、一席|打《ぶ》つ前に賛成の手をあげる人間をちゃんと用意してかかる男である。強い者には低姿勢をつらぬき、弱い者には絶対に|嵩《かさ》にかかっていく男である。あちらこちらに情報網を持っていて、会社の上層部の方針に敏感に応ずる用意をおこたらない男であった。 「だが、加藤君も二十七だ。一本だちしなければならない年だ」  外山三郎はつぶやくようにいった。  加藤は、同じようなことを影村がいったことをふと思い出しながら、二十七という年がなぜそれほど問題になるのかを考えていた。 「影村君は、技師として加藤君を迎えたいといっている。率直にいって君の学歴からすると早過ぎるけれど、君のディーゼルエンジン改良案の功績と影村君の熱心さが部長を動かしたらしい」  らしいというのは、あきらかに、外山三郎の持っている疑問だった。外山は眼で加藤に話しかけた。 (ね、加藤君、へんだと思わないかね。あの影村一夫が、なぜ君のためにだけ、それほど一生懸命になるのだ。技師になることはたいへんなことだ。研修所出のきみが二十七で技師になることは研修所卒業生にとって大いにはげみになることではあるが、きみより前に卒業した者にとっては、居ても立ってもおられないような苦渋を味わわされることになるのだ。会社は戦争期待の方針を打ち出そうとしている。第三課新設もそうだ。不景気のどん底で拡張をはかろうとしているのだ。だから、きみが技師になれるチャンスが巡って来たのだといってもいい。しかしそれは理屈だ。やはり、影村一夫が、異常なほどの熱心さで、きみを推薦したことが、きみを技師の地位におし上げようとしているのだ。おれは、影村がきみにかけようとしているその過分な愛情を不安に感ずる)  加藤は、外山三郎の眼の中に、外山がなにをいおうとしているか、おおよそ察知できた。 「影村さんて人がぼくにはよく分らない」  加藤は外山の眼に|応《こた》えていった。足音を立てずに近よって来た影村のことが頭に浮んだ。そうっと近よって来て、ぽんと肩をたたかれたあのときの気味の悪さは、おそらく、影村のそばにいるかぎり続くだろうと思われた。 「やがて分るようになる。人にはそれぞれいいところと悪いところがある。悪いところは見ないようにするのだ。行け、加藤君、影村君のところへ行くのだ」  外山三郎の最後のことばで加藤はそこにふみとどまった。行っちゃいけないのだ。もし行ったら、なにかよくないことが起る。外山三郎のところにいさえすれば、平和に生きていくことができる。外山三郎は加藤の偉大なる|庇《ひ》|護《ご》|者《しゃ》だった。第二の父であった。 「ぼくは、……やはり外山さんのところにいたい」 「ばかな、君は技師のチャンスを逃すのか。いま技師にならなかったら、|金《こん》|輪《りん》|際《ざい》チャンスは廻って来ないぞ。それに、きみの転課はすでに決ったのだ。もうおそい、きみが影村君にオーケーをいったときに決ったのだ」  加藤は首を垂れた。なぜあの翌日、すぐに外山に話さなかったのだろうか。加藤は背信を自覚した。外山三郎が加藤のそばから去っていく足音が聞えた。 「山のことは影村君にたのめ。たのんでもだめなら山をあきらめろ。君は技師になるのだ、きみのお父さんも喜ぶだろう」  浜坂の生家で寝たままの父が、加藤が技師になったと聞いて、喜ぶ顔が見えるようだった。 「技師になったらぜんぜん山へは行けませんか」 「いやそんなことはない。時と場合によってだ。技師だといっても年に二週間の休暇は認められているのだ。ただ、いままでのようにはいくまいといっているのだ」  加藤は外山の家を出た。  技師になれるという喜びよりも、外山と離れることの悲しみの方が大きかった。彼は重いルックザックを下宿へおくと、いそいで着がえて、会社に向って走った。  人生の変り目に来ているのだと思った。ここが大事だと思った。第三課へ行くのはいいが、ひとつだけ条件があった。山をやらせてくれということだ。それを影村にはっきり納得させないで、転課してしまったら、彼の雄大なる希望——ヒマラヤ遠征さえできなくなるかも知れない。  会社へつくと、田口みやが出勤して来ているだけで、ほかには誰もいなかった。 「今朝山からお帰りになったの、山は寒かったでしょう」  田口みやの方から笑いながら話しかけて来た。いつもならみんなが|出《で》|揃《そろ》ってから茶を入れて持って来るのに、その朝は加藤のために、誰よりも先に茶をついで持って来てくれた。加藤は、同じ部屋に何年もいて、田口みやの笑いかけた顔を見たのはその時がはじめてだった。加藤はだまったままでうなずいた。変り目に来ているのは、自分だけではなく、この田口みやも、|何《なん》|等《ら》かの変り目に来ているのだ。いやそれは、課全体、会社全体にいえることかも知れない。そうだ、日本全体が変り目に来ているのだ。  加藤は渋い茶を飲んだ。      4  昭和七年五月、神港造船所は会社の内部組織を一部改善した。内燃機関設計部に第三課が新設され、課長に影村一夫が決った。加藤文太郎は技師の辞令を|貰《もら》った。加藤は貰った辞令を久しぶりに着こんだ背広服の内ポケットに入れて、時々押えて見てはその感触を楽しんだ。初任給を貰ったときもそうだった。 「加藤さんは偉いわ、ひとりで山の中を歩き|廻《まわ》って少しも|淋《さび》しくないように、もともと意志がしっかりしていて根性があるのよ」  金川しまがそういった。  山の中をひとりで歩いていて淋しくないというしまの表現が加藤には|面《おも》|白《しろ》く聞えた。他人には、淋しいのを我慢して歩いているように見えるのかと思うと、おかしかった。 「山を歩いていたってちっとも淋しいことなんかないですよ」 「だから、加藤さんは偉いっていうんです。でも加藤さん、人生のひとり歩きはつらいですよ。加藤さんと同じ同期生でありながら、うちの人は、私や坊やをほったらかしてどこへ行ったやら行方も知らせてくれない」  金川しまのそばでは、坊やが不思議そうな顔をして、眼にそでをあてている母親の顔を見上げていた。 「ほんとうだ。金川義助の|奴《やつ》どこへ行ったのだろうな」  そこまでいって、加藤は、|箸《はし》を動かす手を休めた。 「金川義助らしい男に会ったのがいますよ」  金川しまは|濡《ぬ》れた眼を光らせて、 「どこで会ったのです。|誰《だれ》です。会った方は」  喜びの声ではなく、|憎《ぞう》|悪《お》に近い声だった。 「やはり、ぼくらの同期生で、北村安春という男なんです。きのう、ぼくの同期生がぼくの昇進祝いの会を開いてくれた。その席上での話です。ぼくも気になったから、よく聞いて見たのだが、らしいというだけで、金川義助だかどうかは確かめ得なかったそうです。北村安春は、おい金川じゃあないかと声を掛けた——」 「どこなんです。いつですそれは」 「ひとつきほど前に|三宮《さんのみや》の駅の近くらしい。結構な服装をしていたという話だ」 「やっぱり神戸にいるのね」  金川しまは歯をくいしばっていった。おそろしい顔だった。加藤は女がそんな顔をしたのを見たことはなかった。 「心当りがあるのですか奥さん」  金川しまはそれには答えず、しばらくしてからいった。 「あの人はなにもかも裏切ったのだわ。友人も、家族も、そして自らの思想さえも……そうでなかったら、私の前から完全にかくれて生きていられるはずがない」  加藤は、思いつめたような顔をして、考えこんでしまった金川しまにかけてやるべきことばがなかった。加藤は、勝手に飯を盛った。 「あの人には女がいるのよ」  金川しまがはっきりいった。 「女が、まさか」 「いいえ、加藤さんには分らないのよ。あのひとは女がそばにいないと生きてはいられない男なんです。あの男が生きているかぎりはどこかに女がいなければならないんです」  加藤はいそいで飯をすませると、立上った。金川しまのそばにいると毒気に当りそうだった。加藤は二階にあがって、浜坂の父に手紙を書きはじめた。技師昇進のことは、前もってそれとなく知らせて置いたのだが、技師になれたという通知はまだだった。  やっと一人前になりましたと加藤は書いた。一人前以上になったと思う心の下で、そのようにへりくだってみるのもうれしいことだった。 「おい加藤、出世頭の加藤。これで、おれは働く張り合いがでた。だが張り合いだけでは技師になれない。おれも、加藤に山へつれていって貰って雪穴の中へもぐりこんで、ディーゼルエンジンの新機構でも考えるかな」  |嫉《しっ》|妬《と》に満ちた同期生のことばが、手紙を書いていると加藤の頭に浮ぶ。 「影村技師がたいへん君を買っているそうじゃあないか。あの指導主任だった影村がきみを買っているとは想像もできないことだ。影村は研修所時代にきみを刑事に引きわたしたことがある。変ったもんだな」  そんなことをいうものもいた。  加藤はペンを置いた。素直な気持で、父親によろこびを伝えることはできなかった。彼はほんの数行書いて、そのうち故郷へ帰ると結んだ。  故郷に帰ると父は結婚のことをいうだろう。 「文太郎、お前が嫁を貰うまでは、おれは死ねない」  嫁の話が頭に浮ぶと加藤は、いつか浜坂で会った少女のことを思い出す。黄色い帯を胸高にしめた、まだ肩揚げをしていた花子の黒い|瞳《ひとみ》が彼を見つめる。  加藤は、父あての手紙を書き終ると、押入れから山の道具を引きだした。庭で野宿するつもりだった。技師になったって、おれは山をやめないぞという決意のようなものが彼の中にあった。  技師になってから今日で五日目だ。だがおれは、毎日、石の入ったルックザックを背負って会社へいくことはやめてはいない。ナッパ服を背広服に着替えようともしないのだ。加藤は自分にいいきかせた。技師になれたことのもとを|訊《ただ》せば、真川から大町に抜ける十日間の雪の中の苦闘だった。吹雪の中のビバークで、あのメカニズムの着想を得たのである。 (山はおれの心なんだ。山からはなれたらもはや加藤文太郎は存在しない)  彼は庭木の枝の下で自製の|合《かっ》|羽《ぱ》をかぶって犬のように丸くなった。  翌朝彼は、彼の下宿の庭のビバーク場所から玄関に入るとき、五・一五事件発生の新聞記事を読んだ。|犬《いぬ》|養《かい》総理大臣が海軍将校および陸軍士官候補生|等《ら》の|兇弾《きょうだん》に|斃《たお》れたのである。  加藤は、時局の変転が、彼に追従して来るような気がしてならなかった。  その朝、加藤は、いつもどおり、三十分も早く会社につくと、ノッズルの設計に取りかかった。ノッズルはディーゼルエンジンの心臓部である。ノッズルのでき不出来で、能率は左右される。それは他のいかなる部分にも増して、デリケートな役目を負わされている。 「加藤君、ノッズルの設計はよほど注意してやらないと女の子みたようなものができるぞ、気むらで、わがままで、おセンチで、どうにもしまつが悪いものができる。気をつけてくれよ」  加藤は、ずっと前に外山三郎が注意してくれたことばを思い出しながら鉛筆を走らせていた。  第三課は第二課の隣である。もともとそこは、会議室であったのをつぶして、建て増して第三課が作られたのである。  加藤が設計にかかると間もなく、第二課の田口みやがお茶を持って入って来た。第二課の田口みやが第三課の加藤のところまでお茶を持って来ることは、分を越していた。それは好意以上のものであった。  加藤は鉛筆を置いて礼をいった。田口みやは、加藤の知るかぎりにおいては和服に|袴《はかま》をつけていた、これといって目立ったところのない平凡な女であった。特に美しいところもないし、そうかといって、醜い女でもなかった。無口で、|真《ま》|面《じ》|目《め》に、いわれたことをきちん、きちんと始末していく女だった。頭も悪くはなかった。ひとりで庶務係を担当しているのだが、事務を間違えたことはなかった。気が|利《き》いて有能な第二課になくてはならないメンバーのひとりだった。  その朝、田口みやはめずらしく洋装だった。白いスーツを着ていて、|清《せい》|楚《そ》な感じがした。それよりも加藤が驚いたのは、田口みやが、口紅を塗っていたことだった。加藤は、それまで田口みやがそのようなことをしたのを見たことがなかった。  加藤がびっくりした|眼《め》で田口みやを見詰めていると、彼女は、 「あら、いやよ、加藤さん。そんなに見つめちゃあ」  彼女は顔をおおうようにして、小走りで逃げ去った。一種の|媚《び》|態《たい》に見えた。あのおとなしい田口みやに、どうしてあのようなことができるのかと、加藤は不思議に思った。  田口みやは、その翌日は、加藤よりも早く出勤していた。その朝はお茶を持って来て、加藤の机のそばに|坐《すわ》りこんで動かなかった。加藤には女のにおいは邪魔だった。香水の知識はなかったが、田口みやが、かなり高価な香水を使っているように思われてならなかった。濃い化粧もしていた。田口みやは|変《へん》|貌《ぼう》した。やはり彼女はそういう|年《とし》|頃《ごろ》なのだ。加藤はそう思った。別に気にしなかった。そばへ彼女が来て坐りこんでも、いい加減に|相《あい》|槌《づち》を打っていた。加藤はけっして積極的に口はきかなかった。  田口みやが、加藤に|縁《ふち》|取《ど》りのしたハンカチをくれたのは六月に入ってからだった。ただの一枚のハンカチだったが、縁取りを彼女自らがやったのだとことわってくれたところに意味があった。加藤は無造作に、そのハンカチをポケットに入れた。  下宿で飯を食っているとき、加藤は、そのハンカチを出して額の汗を|拭《ふ》いた。 「おや、加藤さん、それどなたに貰ったの」  金川しまがいった。金川しまは、彼の下宿に居なくてはならない人になっていた。多幡新吉はほとんど寝たっきりだし、|婆《ばあ》さんは新吉の世話をするのがやっとだった。てつ婆さんが急速にふけこんだ理由のひとつは、孫娘の美恵子が病院で死んだことにもよる。下宿屋としての運営は金川しまが握っていた。 「会社のひとに貰ったのだ」 「そのひとは加藤さんに気があるわよ。黙って貰って置くと、あなたは、そのひとの好意を受けたことになるのよ」 「なんだって」  金川しまの一言は加藤にとって、|霹《へき》|靂《れき》の勢いにも感じられた。 「そのひとはどんな方、いい方なら結婚してもいいけれど、あなたのように真面目なひとは、えてして、女にだまされやすいからね。だいたい女の方からモーションかけるなんて、どうかと思うわ」 「ぼくはモーションをかけられたのか」  加藤は、緑色の絹糸でていねいに縁取りしたそのハンカチに眼をやった。 「年頃ね、その|女《ひと》」  ああ、と加藤は答えながら、田口みやの年齢を考えた。彼が第二課に勤めるようになった年に女学校をおえて入社して来たように覚えている。そのとき加藤は|二十《は た ち》だったとして、彼女は十七か八。すると彼女の年齢は二十四か五ということになる。 「二十四か五ってところじゃあない」  金川しまはずばりと当てた。そのハンカチの縫い取りの針の運びを見れば分るのだと得意気にいってから、 「あせっているのね」  とつけ加えた。昭和七年ごろの女性の結婚の適齢期は数えどしで二十か二十一だった。  加藤は出勤時間をおそくした。いつも三十分前にいくのを十分前に出勤するようにした。田口みやを警戒する気持になったのである。  七月に入って急にむし暑くなった日であった。彼は石のルックザックを|担《かつ》いで会社へつくと、課の|隅《すみ》にある洗面器の前で、|諸《もろ》|肌《はだ》を脱いで、汗をぬぐった。 「まあ、ひどい汗だこと」  田口みやの声と同時に、彼女の|手拭《てぬぐい》を持った手が加藤の背中に延びた。加藤は反射的に田口みやからとびのこうとした。そのときちょうど課長の影村が顔を出した。びっくりしたような顔で立ち止ったが、わざと見ないようなふりをして|椅《い》|子《す》に坐って、加藤に背を向けた。  その夜、加藤は影村課長に、二月ごろ一度来たことのある小料理屋の二階に呼ばれた。 「どうだね、技師になった気持は」  影村はそれと同じことをもう数回加藤にいった。そのことばの裏には、おれがお前を技師にしてやったのだといいたい腹が見えすいていた。技師にして貰ったことはうれしいが、いつまでたっても、そういう眼で見られているのは加藤にとってあまりいいものではなかった。そういう場合加藤は、はあとか、どうもとか|曖《あい》|昧《まい》なことばを吐きながら頭を|掻《か》いた。加藤の日ごろのくせを知っている影村にはそれでよかった。 「技師になったところで嫁を貰わないか。君の同期生は、半分以上は嫁を貰っているぞ」  影村は、なんとなく|高《たか》|飛《び》|車《しゃ》だった。加藤に、酒はすすめなかったが、空の|盃《さかずき》を加藤の前につき出して、彼に|酌《しゃく》をさせた。料理屋の女は近づけなかった。 「実は、結婚の話で、おれは君をここに呼んだのだ。結論から先にいうと、相手は、君がよく知っている田口みやだ」  影村は加藤の眼をとらえてはなさずに先をつづけた。 「きみが田口みやとこのごろ親しくしているということは、会社では評判になっている。|暁《あかつき》の|逢《あい》|引《びき》などということをいっているものも、いるそうだ。おたがいに好きなら結構なことだ。あまり|噂《うわさ》がひどくならないうちにおれが|媒酌人《ばいしゃくにん》になってやろう」  加藤は影村のことばに顔色をかえた。加藤が|昂《こう》|奮《ふん》すると赤い顔になる。怒ったときも、感激したときも、苦しいときも彼は赤くなった。青い顔をした加藤を見たものはなかった。同じ赤い顔でも、その場合場合によって表情は違った。彼が赤い顔をして不可解な微笑を浮べたときは、それは照れかくしの許諾か、賛同か、感謝か、なにかそういったものであったが、いくらか眼を|吊《つ》り上げ気味にして、|唇《くちびる》を突き出したときは誰が見ても分るようにそれは彼の怒ったときであった。 「ぼくは田口さんと親しくなんかしていません。彼女の方から勝手にぼくのところへ来るだけのことです」 「これは驚いた。朝っぱらからぴったり|身体《か ら だ》をくっつけ合って話しこんでいるのを見たという人もいるぞ。今朝だって、おれはこの眼で、きみが田口みやに背中の汗を拭かせているのを見た。娘に背中の汗を拭かせるということは、普通の仲ではない」  加藤はそれに抗議しようとした。ひどい誤解だといおうとした。すべてが田口みやの一方的な進出であって、加藤の知ったことではないといいたかった。だが、加藤はそういう前に、影村がすでに、その勝負において勝者の立場でものをいおうとしている態度を見てとると、沈黙した。  荒れ出した吹雪には抵抗しても勝てなかった。|雪《せつ》|洞《どう》を掘って、その中で、吹雪のたわごとをいわせほうだいいわせて、吹雪の方でつかれたころ、雪洞を出ればよかった。影村は吹雪のようにすさまじい自信を持っていっているのだ。その自信の根拠となるものは課内の噂かも知れない。はやばやと技師になり過ぎた加藤に対する一種の中傷と見て取ってもいい。そういうものがいっしょくたになって、加藤の醜聞をばらまいているのだとしたら、それは時間をかけて、身を|以《もっ》て潔白を証明するよりほかにないだろうと思った。 「どうかね加藤君。田口みやはいい娘さんだ。あの子の両親にぼくは結婚のことをたのまれているのだ。田口みやの気持は聞いた。彼女はきみが好きだといっている。きみだってまんざら彼女が|嫌《きら》いではあるまい。それなら結婚したらどうだね」 「一方的すぎるように思いますが……」  加藤は吹雪がおさまるまで待てなかった。このへんでちゃんと|呼《い》|吸《き》ぬきの穴だけはこしらえて置かないと、吹雪はいい気になって、加藤を雪の中に埋没しかねない勢いであった。埋没されることは窒息死することだ。 「と、いうことは、おれの持ち出したこの話がいやだというのか」  影村はきっとなった。 「いやだというわけではありません」  加藤は、あやうく逃げた。それ以外にいうべきことばはなかった。 「そんなら田口みやと結婚してくれないかね。彼女の方も望んでいることだし、おれから見ると、似合いの夫婦ができると思うんだ」  影村はそこで急におだやかな口調になっていった。 「きみのために、おれはずいぶん努力して来た。技師にするにも、なみたいていのことではなかった。おれはきみにむりやり田口みやをおしつけようとしているのではない。きみが|嫌《いや》だというならば、それはしょうがないことだが、きみとしても男としての責任を考えねばなるまい。少なくとも、きみは田口みやに気を持たせるようなことをしていたはずだ」  加藤にとって田口みやは結婚の対象として考えられるような女ではなかった。平凡な女だった。妻として暮そうという|意《い》|慾《よく》の|湧《わ》かない女だった。ただ最近、田口みやが急に人が変ったようになって加藤に接近して来たことを不審に思っているだけのことだった。あの縁取りのハンカチは受取るべきではなかったと思った。 「どうだね加藤君、いますぐうんと返事して貰わなくてもいいのだ、だいたいのことでいいのだ。彼女に希望を与えてやれるていどの言葉で結構なのだ」  影村の声の調子は低音の一本調子になっていった。|稜線《りょうせん》を吹く西寄りの季節風のように、一定風速と|風《かざ》|向《むき》を堅持して、じわじわと稜線のふちに追いこんでいって、ついには谷底へ吹きおとす、あの執念のような力づよさが影村のことばの中にあった。加藤を技師にしてやったという恩顧と、課長という権力がその西寄りの風を吹かせているのだ。 「考えさせて、いただけませんか。それに結婚のことは父に任せてあるんです」 「お父さんに任せてあるのか。するとお父さんがいいといったらいいんだね、加藤君」  加藤は黙った。それが加藤の防衛線の最後だった。それ以上のことは|嘘《うそ》になる。加藤には嘘がいえなかった。 「よし、それでは、おれがきみのお父さんに話をつけてやる。それでいいな」  加藤は悲しい気持になった。理詰めに押されて、とうとう承服せざるを得ない立場に追いこまれたような気持だった。 「でも、さいごは私の意志で、結婚の相手はきめねばならないでしょう。田口みやさんについては、考えさせて下さい。もう少し考えさせて下さい」  加藤は吹雪に抵抗して、やっと、彼が呼吸ができるだけの穴を掘ると、そこから影村の顔をじっと見てやった。 (なぜ影村は、田口みやをおれにおしつけようとするのであろうか)  吹雪は去った。青空の向うで声がした。 「考えて見てくれ。そうだ、なにもいますぐということはない、加藤君」  影村は加藤の肩をぽんと|叩《たた》いていった。いつかの夜、足音をしのばせて近づいて来て、ぽんと肩を叩かれたときと同じように、加藤は、敏感に肩をひいた。薄気味の悪い感触だった。  その夜加藤はよく眠れなかった。どう考えても、田口みやと結婚するのは気が進まなかった。  翌朝加藤は、出勤時間ぎりぎりいっぱいに出社した。田口みやは来なかった。  彼はほっとして机に坐った。鉛筆を持つ手がときどき止った。田口みやとの結婚話をどうやってことわろうかと考えていると、浜坂で会った黄色い帯をしめた少女のことを思い出す。花子の姿が眼にちらつき出すと、田口みやの存在がはっきりと否定される。 (折を見てことわろう)  だが、それは容易にはできそうもないことであった。加藤もまた上役を気にする一サラリーマンであった。      5  影村課長に、ちょっと残ってくれといわれたとき、加藤はいよいよあの返事をしなければならないときが来たのだなと思った。  第三課員のほとんどが帰って、影村と加藤とふたりになると、影村は加藤を課長の机の前に呼んでいった。 「結婚の日取りはいつにするかね。そろそろ会場の方を予約しておかないと、いいところがなくなるからね」 「結婚の日取りですって?」  加藤はびっくりした。田口みやとの結婚について考えておけといわれた覚えはあったが、結婚すると返事をしたつもりはなかった。 「そうだ結婚の日取りだ。向うの方では、はやいところ決めてくれといっている」  影村一夫のいい方は高飛車だった。すでに加藤が田口みやとの結婚を承諾したものとしての前提に立ってのいいぶんだった。 「だって、課長、ぼくはまだ、結婚するともしないともいってはいません」 「そういうことは、はっきりいわないでも、おおよそのことが分れば、話はどんどん進んでいく。きみに田口みやの話を持ち出したのは七月だった。その後きみから、あの話はいやだとことわられた記憶はない。きみがことわらないかぎり、こっちは、君が承諾したものとして話をすすめていっている。いまから承知したのしないのという問題ではなかろう」  影村一夫の眼には険がある。怒りが眼に現われる、一種の威力を持って相手を圧倒しにかかる。影村のそういう眼に会ったのは、加藤にとってしばらくぶりだった。研修所時代、金川義助事件のとき、それと同じ眼で|睨《にら》みつけられたことがあった。そのときも加藤は、加藤なりの反発感情を顔に現わして影村一夫を見たものだ。いまは課長と技師の|間柄《あいだがら》であったが、影村が加藤に浴びせかけて来る眼は、十年前の眼といささかも違ってはいなかった。それは権力をかさ[#「かさ」に丸傍点]に着た|恫《どう》|喝《かつ》の眼だった。 「ぼくにとっては一生の問題です。そう簡単に結婚の相手はきめられません」 「田口みやにとっても、結婚は一生の問題だ。女にとっては、君以上に結婚は重大な問題なんだ、しかも、君との間に、いろいろと噂がでていることでもあるし、いまさら、この話がだめになれば、彼女は嫁に行けなくなるかもしれないぞ」 「ぼくとの間の噂っていったいなんなんです。朝早く出勤したとき、彼女がお茶を持って来たということだけじゃあないですか。彼女とは会社以外では一度も会ってはいません。話したこともありません」 「それは|詭《き》|弁《べん》というものだ。きみがなんといおうと他人はそうは思っていない。きみと田口みやができているという噂は、すでに固定的なものになっている」 「できている?」  加藤は思わず声をあげた。とんでもない話だと思った。そんな噂が会社の中にとんでいることは知らなかった。もしそうだったらたいへんなことだと思ったが、すぐ加藤は、そんなことはない、そんな噂がとぶはずがないと影村のことばを心の中で打ち消した。なにか、田口みやとの結婚について影村一夫が圧力をかけすぎているように感じた。好意以上のものが感じられた。 「おれはここで、きみと議論をするつもりはない。はたでいろいろと噂が立つようになったら、機先を制して、田口みやとの結婚を発表した方がいいではないかと思っているのだ。君も技師になったことだ。研修所出身者で技師になったのは君が第一号といってもいい。みんなが注目している。その君にへんな|疵《きず》をおれはつけたくないと思っている。な、加藤君、きみを技師にするについては、おれは非常に苦労した。その君のためを思って、この話をきみにすすめているのだ。この前、君に田口みやの話をしたとき、きみは田口みやを嫌いではないといった。そのときにおれはもう、きみと田口みやを一緒にすることを考えていたのだ。早朝の密会などというへんなデマを打ち破るためにも、それが一番いいと考えたのだ」  影村は声をおとしていった。説いて聞かせてやるといったふうな話しぶりだった。 「とにかくぼくは、ここで御返事はできません。ぼくの結婚問題については、田舎の父にいっさいまかしてあるんです」 「それはこの前聞いた、だから、きみの父親には、おれが話してやるといったじゃあないか」 「それには及びません。こんどの土曜、日曜を利用して浜坂へ帰って父に会ってまいります」  加藤は父の名を出した。田口みやとの話をことわるには父を盾にするよりしようがないと思った。父の名を出したとき加藤の心の中では、はっきりと、田口みやとの話をことわるつもりでいた。 「そうか浜坂へ行って話をきめて来てくれるか。それならそれでけっこうだ。とにかく式場の方の予約だけは一応しておこう」  影村一夫はそれまでとは打ってかわった顔で、帰りにいっぱいつき合わないかといった。加藤はその影村から逃げるようにして、初秋の神戸の町を、池田上町の彼の下宿へ向って歩いていった。|面《おも》|白《しろ》くないときは、せっせと歩くにかぎる。彼はほとんど走ると同じぐらいの速さで歩いた。技師になっても、背中からおろそうとしない、石の入ったルックザックと、ナッパ服の加藤が、風を切って坂道を登っていくうしろ姿を|眺《なが》めながら、 「なんでしょうね、あの人」 「きっと、これよ」  そんな会話をする女がいた。きっとこれよといったとき、その女が、頭のあたりで、くるくると輪をつくった。加藤はその会話を小耳にはさんだが、別に驚きもしなかった。|馴《な》れ切ったことだった。  下宿に帰ると、金川しまが|眼《め》を輝かせながら近づいて来て加藤の耳元でいった。 「女のお客様がもう一時間も待っているわ」 「|誰《だれ》です」 「田口さんという方」  金川しまは加藤の顔色をうかがいながらいった。 「なぜ黙って二階へあげたんです」  加藤は金川しまにつっかかった。二階の下宿へ引越して以来、一度だって、その部屋に女の訪問者はなかった。はじめての女の訪問客が田口みやだということが、なにか加藤には腹がたった。 「では下へ来ていただきましょうか」  加藤はそれには答えず、口をとがらせて顔をしかめて、階段を登っていった。 「お留守中おうかがいしてすみませんでした」  田口みやがいった。いかにもすまなそうだった。すまないことが分っていたが、どうしても来られずにはおられなかったという態度だった。 「用件はなんでしょうか」  加藤の口からは意外なほど、そっけないことばが、とび出した。ことばと同じように、彼の表情は固かった。田口みやは、はっとしたように加藤の顔を見たが、すぐ、自分を取りもどしていった。 「影村さんを通じてのお話のことなんですが」 「ああ、あの話ですか。そのことでしたらいままで、影村さんと話して来ました。ぼくは、結婚問題はすべて田舎の父にまかしてありますから、今度の土曜、日曜に、浜坂へ帰って父と相談して来ようと思っています」  まるで、|他《ひ》|人《と》ごとのようないい方だった。田口みやは、加藤が、田口みやの不意の来訪をけっして喜んでいないことを読みとっていた。浜坂へ帰って父に話すというのも、断わる口実を作るためだと思った。女の直感だった。 「私は加藤さんに私のほんとうの気持を……」  金川しまが茶を持って入って来た。それまでに見たこともないほど、鋭い眼つきで、田口みやと加藤文太郎を見くらべながら、未練たらしく、ゆっくりと階下へおりていった。 「あなたのほんとうの気持ですって」 「そうです。私のほんとうの気持をお話ししようと思って参りましたが、やめました」 「なぜ」 「話しても、おそらく加藤さんには分らないと思います」  そして、田口みやは、なにかこみあげて来る悲しみをおさえるようにハンカチを出して、顔に当てると、いきなり立上って階段をおりていった。 「あなたが悪いのよ加藤さん。|可哀《か わ い》そうに」  田口みやの姿が見えなくなるとすぐ、金川しまがいった。 「よほど、なにか大事なことを相談しに来たのに、あなたが、口をとがらせて、しかめっつらをして、けんもほろろの態度をするから、あのひとは出ていってしまったのよ」  だが、加藤には、それだけでは、田口みやが、いきなりとび出していった理由がわからなかった。 「あの田口さんというひと|処女《む す め》ではないわね。男を知っている体つきをしているわ」  金川しまが、へんなことをいった。  加藤にとってさらにわからないことだった。とにかく加藤は女というものはわからないことが多くて、おそろしいものだと思った。  加藤はその夜久しぶりに庭で野宿をしようと思った。  加藤は浜坂に近づくに従って妙な気持になっていた。加藤にはめずらしいことだった。じっとして|坐《すわ》ってはおられない気持だった。なにか胸が浮き浮きした。楽しかった。苦心して登った山から無事下山したあの満足したたのしさでも、これから山へ登るときの楽しい気持でもなかった。およそ、その心の浮き浮きは、加藤の経験にない楽しさだった。春の陽光を浴びて芽を出す植物を見るときふと感ずるあの気持に似ていた。お花畑の近くを通るとき、突然芳香につつまれて立往生するあのときの気持とも共通していた。  加藤は、なぜ浮き浮きするか自分でもわからなかった。浜坂へ父を訪ねるのは、田口みやとの結婚をどうしてことわるかという相談だった。加藤を技師にしてくれた、直属課長の影村技師がすすめてくれる縁談をことわった場合、あとになにが起るかということも考えた上で、ことわらねばならない。そういうことを父に話しに来たのである。浜坂の父の言葉として、 (お話はまことに結構ですが、実はこちらにすでに文太郎の嫁ときめた娘がございまして……)  病床にいる父の言葉をそんな具合に兄に書かして影村に送るのもひとつの手であった。 (だが、それは一時逃れでしかない。一時逃れだとわかったとき、影村はもっと怒るだろう)  加藤はそこまで考えて、そこからひととびに浮き浮きした気持になるのである。三年前に神戸から山を越えて来たとき、ぱったり会った花子が眼の前に浮び上って来るのである。紫地のメリンスの|元《げん》|禄《ろく》そでの着物に、黄色い帯を胸高にしめていたおさげ髪の黒い|瞳《ひとみ》の少女の顔が浮びあがるのである。  あれからすでに三年たった。花子がそのままでいるはずはない。 (花子がもしあのとき伯母がいったように、結婚の対象として出て来るならば)  花子を考えると、なにか胸が鳴るのである。それまで一度だって感じたことのない妙な気持だった。郷愁が胸にあふれて、ついには涙ぐんでしまいたいほど、おかしな気持だった。  加藤は汽車が浜坂の近くになると、とうとう座席から離れた。彼は汽車が久谷を出ると、荷物をさげてデッキに出た。  浜坂は夜が明けたばかりだった。  こんな時間に家へ行ったら、兄たち夫婦はまだ寝ているだろうと思った加藤は、荷物を持って駅の裏から|宇《う》|都《づ》|野《の》神社の方へ歩いていった。石段の下へ荷物を置いて、ひょいひょいと石段をかけ登っていくと、十年ほど前に、この石段で花子と会ったときのことを思い出した。泣いていた少女の|下《げ》|駄《た》の鼻緒を、腰の|手拭《てぬぐい》をさいて、すげてやったときのことを思い出したのである。  宇都野神社の石段を三回ほど上下して時間をやりすごしてから、加藤は、荷物を持って生家の方へ歩いていった。 「文太郎、ほんとうに来たのか」  玄関で浜へ出ていこうとしている兄が文太郎にいった。 「ほんとうに来たって?」 「お父さんが、文太郎が来るような気がすると、きのうあたりからいっていたんだ。虫が知らせたというやつかもしれない」  兄は弟の来たことを、すぐ父に話しにいった。 「やっぱり来たんだな、文太郎」  病床に長いこと伏せている父は、文太郎の顔を見ただけで涙を浮べた。 「めったには帰って来ない文太郎さんが、来たということはなにかいいことがあったのでしょう」  兄嫁がいった。 「いいこと? そうだな、いいことといえばいいことになるかもしれないが、ほんとうは困ったことなのだ」 「困ったことだと」  父は心配そうな顔をした。 「いったいなにがあったのだ」 「課長に嫁をもらえといわれているんです」 「嫁をね、お前が嫁をか。願ってもないことじゃあないか。なにが困ったことなのだ」 「その相手が気に入らないのです」 「|嫌《いや》なのか」  加藤はうなずいた。 「どうしても嫁に欲しいと思うような女ではないのです」 「つまり|嫌《きら》いというのだな」  兄がいった。 「そのひとの写真は」  兄嫁がいった。 「持って来ませんでした」  それだけの言葉のやりとりで、加藤がなにしに浜坂へやって来たかは、おおよそ、見当がついたようだった。みんなは黙ったまま、加藤のつぎの言葉を待っていた。加藤は父と兄夫婦に田口みやとの縁談をくわしく話した。 「課長はものすごく強引にそのひとをぼくにおしつけようとするんです。はじめっからぼくが田口みやをもらうことにきめてかかっているのです。だからぼくは浜坂の父に相談するといって帰って来たのです。ほんとうは、ことわる口実をつくるつもりで来たんです」 「そうか」  父は眼をつぶって、なにか考えているようだった。 「その課長さんは、お前にとっては恩がある方だ。その恩にそむくことになっても、その課長さんのすすめるひとと結婚するのはいやだというのだな」 「はい」 「誰かほかに好きな女でもいるのか」  加藤は首をよこにふった。 「伯母さんを呼んでこい。こういうときには伯母さんの|智《ち》|恵《え》をかりるのが一番いい」  父はかなりはっきりした声でいった。 「文太郎さん、伯母さんの来るまで、しばらく休んだらどう。夜行でつかれたでしょうから」  兄嫁が加藤に奥で寝るようにすすめてくれた。  加藤が眼をさましたときには、伯母を中心としての家族会議がどうやら済んだあとらしかった。伯母はいつものように加藤家を背負って立つような顔でいった。 「文太郎、課長さんのすすめてくれるひとをことわるには、ただではだめですよ。浜坂でちゃんと嫁さんを用意していて、そのひとと結婚しなけりゃあどうしてもいけないようになっていたというふうにいわねば、相手は承知しないだろう。ところでその浜坂の嫁さんの話だが、いつか、お前に話した網元の花子さんはどうかね。すっかり大人になってきれいになったよ。お前さえ、よかったら、話だけでも決めておいたっていいのだが」  話がうますぎると加藤は思った。とんとん拍子に、彼が考えている方向へ話がすすんでいくのを加藤はそらおそろしい気持で聞いていた。あまり話がうますぎてかえって、前途に大きな|蹉《さ》|跌《てつ》が起きはしないかとさえ思うのである。 「いいね、文太郎」  加藤は、伯母に向って黙ってうなずいた。 「ひょっとすると文太郎は、花子さんが欲しくなって帰って来たのじゃあないかな」  伯母がひやかすと、加藤は赤くなった。家中が笑った。寝ている父まで笑った。 「それじゃあ、私のうちで、すぐお見合いだ」  伯母はそういうと、加藤に、いそいでひげを|剃《そ》れといった。  花子には花子の母親がついて来ていたが、加藤にふたこと三こと話しかけただけですぐ加藤の伯母とふたりで庭へ出ていった。八畳の部屋には、加藤と花子のふたりになった。  加藤はおそるおそる眼をあげて花子を見た。伯母のいったとおり、すっかり変っていた。もう肩揚げのついたメリンスを着てはいなかった。花子は矢羽根模様のお|召《めし》の|袷《あわせ》につづれ織りの|臙《えん》|脂《じ》の帯をしめていた。黒髪はうなじのところで止めてカールし、髪にピンクの花かざりをつけていた。花子はもう少女ではなかった。だが、花子の黒い瞳は三年前に会ったときと同じだった。十年前に宇都野神社で会ったときの眼と同じだった。ふたりはいつまでたっても黙って向い合っていた。なにかいわねばならないと加藤は思った。男の方からいわねば、相手がいえるはずがないと思ったが、話題がなかった。加藤は困り切った眼を花子へやった。その視線を包むように花子が受けた。 「今朝一番の汽車で浜坂へつくと、すぐ宇都野神社へお参りにいきました」  加藤は今朝のことを話し出した。 「石段を上ったりおりたりしているうちにあなたと十年前に会ったときのことを思い出しました」 「あのとき私、大きな声を上げて泣いたかしら」 「いや、しくしく泣いていました。赤い鼻緒の切れた下駄を片手にこう持って」  加藤はそのまねをした。 「あのとき、加藤さんは腰に手拭をぶらさげていましたわ。その手拭をぴりりっと引きさく音をいまでもはっきり覚えていますわ」 「あのとき春だったかな、秋だったかな」  加藤がいった。 「さあ、どっちだったかしら、季節のことは忘れてしまいましたわ」  ふたりは声を合わせて笑った。ふたりの心は通じていた。十年前に宇都野神社の石段で会ったときから、ふたりの心は結ばれていたようにさえ思われるのである。 「ずいぶん楽しそうじゃあないかね」  加藤の伯母が入って来ていった。伯母は、文太郎と花子との縁談成立を疑わなかった。 「どうだね文太郎、花子さんは」  あとで伯母は加藤に|訊《き》いた。 「いいひとだ」 「好きだってなぜいわないのだね」  伯母は加藤をさんざんにからかってからいった。 「向うも異存はないが、花子さんはまだ十八だ。もう少し女としてのお|稽《けい》|古《こ》ごとをしたいといっている。もっともなことだ。昔とちがってこのごろの女は、なにか身についたものを持っていないと、世の中に出て、ばかにされる。お前も、技師だしね」  技師と花子のお稽古ごとと、なんの関係があるのか、伯母はそんなことをいった。 「どう、文太郎、待てるかね。待てなくなったら、伯母さんにいってくるがいい」  あけすけに、なんでもいう伯母には、文太郎は照れるばかりだった。 「いいですよ。ぼくはいますぐどうしても結婚したいという気持はないんです。ただ課長の縁談をことわることができればそれでいいのです」 「うまいことをいって、この前、浜坂へ来たときから、花子さんに|眼《め》をつけていたくせに、わたしはちゃんと知っているから——ところで、文太郎、結婚すると、山なんかにあまりいってはいられなくなるがいいかね」  伯母が山を出したときは、それまでになくきつい顔になっていた。 「なぜ結婚したら山へ行っちゃあいけないのです」 「結婚すればひとりの|身体《か ら だ》ではなくなる、もしものことがあったら、あとに残された者がたいへん困ることになる」  もしものこと、と伯母のいったことを加藤は汽車に乗ってからも考えつづけていた。もしものことというのは死ぬことを意味するのだ。それまで山で死ぬなどということは考えたことのない加藤が、山で死ぬことを考えたのはそのときがはじめてだった。  どんなひどい吹雪に会っても、道に迷っても、たとえ食糧がなくなっても、彼には生きつづけられる自信があった。 (そのおれにもしものことが起るということはどういうことなのだろうか)  加藤は、彼の経験と自信によって、もしものことが起るのはきわめてまれであることを、自分にいって聞かせながら、やはり相手が山である以上、もしものことが絶対に起らないと否定するまでにはかなりの時間がかかった。  もしものことが起るとすれば、それはいままでの彼の経験にないような非常に危険な山行を計画したときか、そうでなかったならば、彼自身によってすべての判断がきまらないような立場に追いこまれたとき——つまり単独行でなく、|誰《だれ》かとパーティーを組んだ場合に伯母のいう、もしものことが生ずるのではないかと思った。 「|他《ひ》|人《と》とパーティーを組む」  加藤はつぶやいた。  とてもそれはできそうもなかった。剣沢小屋で遭難した土田|等《ら》と変則的な山行をつづけて以来、加藤は山における孤独を自分のものとしていた。ひとりで歩くということに意味があって、他人と山へ一緒に登るくらいなら山へ行かないほうがいいという気持になっていた。 (だから、他人と一緒に山へ入って、もしものことが起るということは、まずおれの場合は考えられない)  加藤は、もしものことについては、それ以上考えずに、神戸に帰ってから、影村に、浜坂でのことを伝えた場合、彼がどんな態度に出るかを考えはじめた。  影村一夫のつめたい眼を思い出すと、背筋が寒くなった。雪面を歩いていて、ぴしっと、雪面にひびの入る音を聞いたような気持だった。|雪崩《な だ れ》が起きたらどっちに逃げようかと、瞬間、八方へ気を配るあのときのように、冷たいものが、彼の身体を走りぬけて通った。 「だがいわねばなるまい」  加藤はひとりごとをいいつづけた。汽車はすいていて、加藤のひとりごとを聞いている者はいなかった。 「以前とは違うんだ、おれには——」  花子という約束のひとがいるのだと思うと、影村の前に立つことも、そうおそろしいとは思わなかった。花子のことを考えている間に、加藤はいつか眠った。  早朝、加藤は神戸についた。  汽車をおりて、プラットフォームで、ミルクコーヒーを飲んでいると声をかけられた。  北村安春が立っていた。北村もどこかへ行って来た帰りらしかった。 「どこかで朝食を食べようか」  北村がいった。 「いやいいんだ。おれはいま朝食がわりにミルクコーヒーを飲んだ」  加藤は北村安春が好きでなかった。 「ちょっときみに話したいこともあるのでね」  北村安春はそういって歩き出した。 「それなら歩きながら聞こうか、どうせきみも、これから会社へ行くんだろう」 「それが歩きながら話すような話ではないのだ。きみに取っては一生の問題になるような話なのだ」  ふたりはプラットフォームで突立って顔を見合せた。 「よし一緒に朝めしを食うことにしよう。朝食代はおれがおごる。いいな、北村」  加藤は、北村安春に|釘《くぎ》をさした。そうしておかないと、北村になにかしてやられそうな気がした。北村安春は、加藤がいきなり朝食代のことなどいい出したので、ちょっと口をゆがめて笑ったが、そのままだまって先に立って、駅から十分ほど歩いたところの食堂へ加藤をつれていった。 「なんだ加藤、朝食がわりにミルクコーヒーを飲んだなどといったって、ちゃんと食べるじゃあないか」  北村安春は、加藤の食べっぷりを見ながらいった。 「食べようと思えば、三食分ぐらい一度に食べることもあるし、なんにも食べないで、三日、四日いることもある」 「山へ行くための訓練だってね、立木勲平海軍技師がいっていた。立木技師は、ひどく君を|讃《ほ》めていた。だが立木技師がいっていたぞ、あの加藤も結婚するとがらりと変るってな」 「変ってどうなる」 「さあ、それはいわなかった。実は加藤、そのきみの結婚の話なんだ。|噂《うわさ》によると、きみは影村技師が間に立って、田口みやと結婚するってことだがほんとうか」  北村安春が急にまじめな顔になった。 「影村さんから話はあったが、おれは田口みやと結婚するつもりはない。今度の旅行も故郷の方で決めてくれたひとと結婚するための下準備にいって来たのだ」  北村安春はほっとしたような顔をした。 「よかった。それなら、よかった。もうおれのいうことはなんにもない」  北村安春は肩から力を抜いた。 「おい北村、へんじゃあないか。ここまで、おれをひっぱり出しておいて、いやにもったいぶるじゃあないか。いったい、なにをおれにいいたいのだ」 「だから、もういう必要がなくなったといっているのじゃあないか。おれは田口みやときみとの結婚について反対してやろうと思ってきみを呼んだのだ」 「なんだと」  加藤は|坐《すわ》り直した。北村安春が、いやだといっても、彼のなかにあるものを見てやろうという顔つきだった。 「影村って|奴《やつ》がどんな男か、きみはだいたい知っているだろう」  北村安春は影村技師を影村と憎々しげに呼びすてにしてから話し出した。 「影村という奴は、自分のために他人を犠牲にするのはなんとも思わない男だ。研修所時代には、ぼくはあいつのスパイとなって使われたが、研修所を卒業すると、さっぱりおれのことは見てはくれない。日の当らないような、工場の|片《かた》|隅《すみ》に追払われたままだ。これでは一生かかっても技師になんかなれっこない。ほかの職場に移してくれるようにたのみにいっても、知らんふりをしている。話を聞いてもくれないのだ」  北村安春は茶を一口飲むと、 「田口みやだって犠牲者なんだ。あのひとは本来おとなしいひとだから、うまいこと影村一夫にだまされたのに違いない。おい加藤、田口みやは影村一夫の女なんだ。影村と田口みやが同じ旅館に泊っているのを同期生の|田《た》|窪《くぼ》が見ているんだ。影村は、誰にもわからないように上手にやっているつもりらしいが、そういう噂は、どこからともなく出て来るものだ。影村は田口みやとの情事が明るみに出そうになって来たから、田口みやをきみにおしつけようとしたのだ。よかった、きみがこの話をことわれば、きみは、技師とひきかえにおさがりを|頂戴《ちょうだい》したといわれないですむ——」  加藤は真青な顔をして北村安春の話を聞いていた。くやしくて涙が出そうだった。しかも北村安春が最後にいった、技師とひきかえにおさがりを頂戴ということばは、聞き捨てできなかった。 「おれが技師になったことと田口みやとが関係あるというのか」  加藤は北村安春につっかかった。 「おこるな加藤。同期生たちは、君の破格の出世を喜んでいるというより、|嫉《や》いている者の方が多い。おれもそのひとりだった。きみが田口みやをもらったら、技師とひきかえに、おさがりを頂戴したばかな奴だと、笑ってやろうと思っていた。だが、おれたちはそれをきみにだまってはおられなかった。なぜならば、きさまはやはり、同期生だ。誰が見ても、きさまは技師に一番先になる資格があった。同期生のレッテルのようなものだ。レッテルに|疵《きず》をつけたくないから、おれが同期生を代表して、きみに、近いうちに真相を伝えようということになっていたのだ」  加藤はなにもいわなかった。頭の中で大砲が鳴っていた。眼の前にいる北村安春の顔さえよく見えなかった。なにもかも、腹が立った。会社にいることも、技師になったことも、北村安春が|洩《も》らした真相、同期生も、すべてが加藤にとって人間不信のパノラマのようにしか映らなかった。 「いわなきゃあよかったかな」  北村安春がいった。 (そうだ聞かないでも済んだことだった。すでにおれは田口みやとは結婚しないつもりでいたのに——)  加藤は北村安春を|軽《けい》|蔑《べつ》の眼で|睨《にら》みつけてから黙って立上って、食堂を出ていった。食堂を出たところで、加藤はくやし涙を片手でぬぐった。      6  加藤文太郎の無口は徹底した。本来無口な加藤がそうなると、|唖《おし》のように見えた。自分から口を|利《き》くということはほとんどなくなった。会社の上役からなにかいわれたときも、肯定か否定を|僅《わず》かに動作で示すだけだった。技術的にややこみ入った問題を討議する必要があっても、彼は発言しなかった。相手のいうことが間違っていれば、首をはげしく振るか、その設計図を相手におしやるか、彼自身鉛筆を取って、彼が主張したい部分の略図を書いて示すといったふうであった。  加藤が極端なほど無口になったなと気づく者は、彼の周辺にいるごく少数の者で、平常無口で通している加藤を知っている者は、特にそのことについて関心は持たなかった。その加藤の変化について、もっとも深い関心を持ち、なぜ彼が|頑《かたく》なに見えるほど、無口に徹しようとしているかを、|或《あ》る意味では、彼よりもよく知っている人間がいた。影村一夫であった。  影村は加藤の帰りを待ち受けていて、その首尾を|糺《ただ》した。 「浜坂には父が決めた娘がいました。この|娘《ひと》です」  加藤は花子の写真を、影村につきつけるようにして言った。 「加藤君、それはあまり一方的ではないか、いったい、田口みやとの話はどうしてくれるのだ」  影村は顔色を変えた。 「私は、田口みやさんに対して、なんら、責任を感ずるようなことはしていません」  加藤は影村の顔を見つめていった。怒りが凝集された眼であった。これ以上|騙《だま》されはしないぞという眼つきであった。加藤の眼を、影村は課長という権力で圧倒しようとした。技師にしてやったという恩義で組み伏せようとした。影村がなにを言っても加藤はそれには|応《こた》えず、影村の眼から視線を放そうとはしなかった。自分が|弄《もてあそ》んだ女を部下におさがりとしておしつけようとした、影村の卑劣なやり方を加藤は|詰《なじ》っていた。 「なぜそんな眼で|俺《おれ》を見るのだ」  そういったとき影村は加藤に負けていた。 「まあ、今日は帰ってもう一度考え直してみてくれ」 「考えてみる必要はありません」  加藤は言いきった。影村の顔がふくれ上ったように見えたが、すぐ青黒く沈んだ。テーブルに置いた影村の手がぶるぶる震えていた。影村は怒鳴りたいのを我慢していた。設計第三課には加藤と影村しかいなかったが、隣室の第二課にはまだ人が残っていた。電灯がついていた。 「分った」  影村はあらゆる|憎《ぞう》|悪《お》をこめた|眼《め》を加藤に向けた。だが加藤はそれ以上の軽蔑と怒りをこめた眼で、影村の視線をはねかえすと、黙って影村の席の前を離れた。  加藤の極端な無口はその日から始まったのである。それは敏感な動物が、近い将来に、襲いかかって来る外敵に対する構えのようなものでもあり、人間不信への加藤独特の抗議のようでもあった。いずれにしても、加藤の沈黙の原因となる影村との対立は、そのままであり得るものとは思われなかった。 (影村はなんらかの報復手段を取って来るに違いない)  加藤はそう感じた。それが、どういうかたちで現われて来るか予想できなかったが、陰険きわまる影村が、このまま加藤を黙って放って置くものとは思われなかった。  加藤が田口みやとの縁談を正式にことわった数日後に田口みやが会社を辞めた。家事見習というのが名目のようであった。影村はすぐ手を打ったのだ。影村と田口みやとの関係を|誰《だれ》かが知っていて、加藤に告げ口をしたと睨んだ影村はすぐ自己防衛にかかったのである。影村は、彼自身と田口みやとのスキャンダルが会社内に|流《る》|布《ふ》されていることを探り出した。影村が田口みやを加藤文太郎にあてがおうとして失敗したことも、かなり|尾《お》|鰭《ひれ》がついて噂されていた。  影村は先手を打った。川村内燃機関設計部長と津野重役に田口みやとの間に関係があったことを告白した。 「たしかにあやまちを犯しました。が、今は田口とはもうなんの関係もありません。田口みやを加藤に押しつけようとしたなどというのは全くのデマです。加藤には浜坂にちゃんと|許婚《いいなずけ》の娘がいます。加藤は根っからの山男ですから、他人にすすめられたからといって、簡単に自分の節を曲げるような男ではありません」  影村はある程度自分を裸にして見せて、火の手の上るのをおさえた。影村と田口みやとの間になにがあったにしても、それは私事であり、会社とはなんの関係もないことであった。川村部長も津野重役も、影村の告白を一笑に付した。影村のその行為は、別の面から見ると、上役に対する一種の|媚《び》|態《たい》であった。献身を表現するためのジェスチュアでもあった。影村が上役に、田口みやを加藤にすすめたことはないと言いきった裏には、加藤の無口を利用していた。加藤が無口になったことは、影村の重大な失態を加藤自ら口を|緘《かん》して語らないと約束してくれたようなものであった。 (時を|稼《かせ》ぐのだ)  影村はテーブル越しに設計机の向う側に坐っている加藤の方へ眼をやった。 (今は黙って見過してやろう、だが、その時が来れば仕返しをしてやるぞ)  見かけ上、影村の加藤に対する態度は変らなかった。ただ加藤の沈黙のみが、第三課において異常だったが、それも日が|経《た》つにつれて、問題にされなくなっていた。 「会社でなにかあったのね、加藤さん」  下宿の金川しまだけは、加藤の沈黙の原因を会社にあると睨んだ。 「いつか、うちへ来た田口さんて方、その後どうしているの」  そんなことも|訊《き》いた。加藤はなにを言われても黙りこくっていた。  加藤の山行が増した。土曜、日曜は雨が降っても、近くの山へ出かけて行った。山を歩いていれば幾分気が晴れた。できることなら人の居ない山を歩きたかったが、山にはどこへ行っても人がいた。山で話しかけられることも苦手だった。加藤が登っていくのを待っていて、こんにちはと呼びかける相手に、加藤は黙って頭をさげて、その人の前を風のように通りぬけていった。 (加藤は山で会っても|碌《ろく》な|挨《あい》|拶《さつ》をしない、態度が悪い)  という評判が山仲間の間に取り|沙《ざ》|汰《た》されていた。加藤がひどく無口になったことは確かだったが、別に態度が悪くなってもいないし、他人との交際をすべて断絶したのでもなかった。志田|虎《とら》|之《の》|助《すけ》のところと、外山三郎のところへはちょいちょいでかけていったし、|可愛《か わ い》い登山家の宮村健に誘われると、園子の居る喫茶店ベルボーに行くこともあった。しかし、交際の範囲はそれ以上は拡大されなかった。それ以外の人間との交際は避けた。村野孝吉がその年の暮の忘年会に出席するように誘いに来た。加藤は黙って首を横にふった。 「おいおい加藤、同級会だぞ、義理ってものがあるだろう、きみが技師になったときは、同期生全員で、きみを呼んで祝ってやったんじゃあないか」  しかし加藤は首を横にふりつづけた。 「どうしても|嫌《いや》なのか、会費はたったの二円なんだ。子供が二人あるおれだって出るんだぜ、きみは技師だからおれたちよりは月給だってボーナスだって多いだろう。だからといって、きみに余計だせとは言わない、酒を一升おごれなんて言わない、なあ加藤出ろよ」  それまで、黙って首をふっていた加藤が、突然口を開いた。 「おれは酒はきらいだ、それに同級会なんか|面《おも》|白《しろ》くない」  それからは、村野孝吉が、なんといっても加藤は口をきかなかった。 「そういう態度は、君自身がいよいよ孤立していくことなんだ……まあいいさ、どうしてもいやならいやでいいさ、そういう男を誘えば、こっちだって面白くなくなるからな」  村野孝吉はあきらめた。  年の瀬がせまって来ると、それまでの感情を殺した加藤の沈黙の表情がやや動きを見せて来る。暮から正月にかけての冬山山行が頭にあるからである。彼は山の準備を始めた。甘納豆を買い込んだり、|乾《ほ》し小魚のカラ揚げを用意したり、着衣のほころびを縫ったりした。その年、志田虎之助の世話で、北海道から取りよせた、|樺《から》|太《ふと》|犬《けん》の毛皮のチョッキを着て、下宿の庭で野宿もやった。|靴《くつ》の手入れも念入りにした。アイゼンの|爪《つめ》も|磨《みが》いた。キュッキュッという音が耳障りだと近所から文句が出ると、加藤は、アイゼンとやすりを持って、神戸の裏山へ登っていった。  昭和七年十二月三十一日午前九時、加藤文太郎は、御殿場口太郎坊スキー場で雪の富士山を見上げていた。  日を背にして見る富士山には陰影がなかった。そのせいか、富士山は平面的な巨大な白壁に見えた。一点の雲もなく晴れわたった青空の下の、白い置き物に似た富士山に対して、加藤は、それまで、彼が踏破して来た、冬山の印象を、なんとか当てはめようと考えたが、そこにはなにか根本的な相違がありそうだ、ということ以外に比較しようがなかった。 「富士山へ登るのかね」  スキー宿の半天を着た若い男が言った。  加藤は返事のかわりに|頷《うなず》いた。 「今朝早く、観測所の|人《ひと》|達《たち》が登っていったから、そのあとをついていけばいい」  半天を着た男は、観測所の人が登っていったという方向を指していった。人影は見えなかった。加藤は、お礼のかわりに二、三度続けておじぎをしてから、スキーの先を富士山に向けた。加藤は今朝方登ったという観測所員の踏み跡を追った。数人で登っていった踏み跡はかなり緩慢な|蛇《だ》|行《こう》|線《せん》を描いていた。早朝に出発したというから、五時か六時だろうと思った。三時間の差を縮めるのは容易ではないと考えていたが、加藤が観測所の一行の影を見かけたのは二合目を過ぎて間もなくだった。観測所員は二隊に別れて登っていた。加藤は正午少し前に一行に追いついた。観測所員ではなく、観測所員たちと共に頂上観測所へ荷物を運ぶ|強《ごう》|力《りき》たち三名だった。 「ひとりですか」  強力が加藤に訊いた。加藤は返事のかわりに笑顔を見せた。 「冬富士にひとりで登るなんて危険だとは思いませんか」  第二の強力は雪の斜面に荷をおろして言った。第三の強力は、ひとりで来たことを別にとがめようとせず、 「どうせ今夜は五合五|勺《しゃく》泊りずら、先に観測所の人たちが行くから頼んでみたらいい」  と言った。  加藤は、それに頷きながら、どうせ今夜は五合五勺とあっさり決めてかかる強力の顔を不審なものを見る眼で見詰めた。登山道は二合目あたりから、右へ右へとトラバースするように延びていた。天気はいいし、スキーのシールは、よく効いた。五合五勺泊りと決めずに頂上まで行けそうだった。だが加藤は、三合目からのトラバースが終って、再び頂上へ向っての蛇行路にかかってから、宝永山の頭を越えて吹きおりて来る強風にさらされた。頂上の方を見ると飛雪の幕が張られていた。加藤にとって冬富士は始めてであった。どこにどんな悪場があるか知らなかった。ただ、登る前に加藤が調べたところによると、御殿場口登山道の五合五勺と七合八勺に気象台の避難小屋があり、頂上に観測所があるということだった。  雪の斜面は広く、それらの小屋がどこにあるかはよく分らなかった。もし彼の前に踏み跡がなかったならば、雪におおわれた石室小屋を目当てに夏山登山道を登っていくよりしようがなかった。この点、観測所員たちの踏み跡を|従《つ》いていくのは気が楽だった。前方を行く人影は五人だった。五人はしばしば立ち止って、驚異的にも見える速度で追いついて来る加藤を見ていた。  観測所員が小さな小屋の前で止った。一人が雪にふさがれた入口を開けにかかっていた。あとの四人は、近づいて来る加藤を見詰めていた。五人が五人とも雪眼鏡をかけていた。  五合五勺の小屋の入口には一坪ほどの平らな部分があった。雪が吹きたまっていた。ここまで来ると山全体がかなりの傾斜角度を一様に持っており、どこにも身の置きどころがないから、ほんの|僅《わず》かな平らでもたいへん安全な|憩《いこ》いの場に思われた。  加藤は五人の男達の見ている前で、その平らな部分にルックザックをおろし、雪眼鏡を取って、笑いを浮べながら頭をさげた。  五人の男たちは、加藤に頭を下げられると、ひどくあわてたようだった。てんでに頭を下げたが、誰も加藤に声を掛けようとはしなかった。加藤の方からも声を掛けなかった。そんな対立が数分つづくと、五人の男たちは、戸が開いた五合五勺の小屋へひとりずつ入っていった。間もなく小屋の中から煙が出て来た。五人が小屋の中で火を|焚《た》き出したことは明らかだった。  加藤は煙を見ると同時に、寒さと空腹を感じた。彼は、小屋の陰に風を避けながら、手早くコッフェルを出し、アルコールランプに火をつけた。小屋の前の吹きだまりの雪をコッフェルに|掬《すく》いこんで、ひとつかみの甘納豆を入れた。腕時計を見ると一時を過ぎていた。  雪が溶けて、氷アズキができると、彼はその前に|坐《すわ》って、スプーンでそれを口に入れた。疲れたときは、熱いものよりつめたい物のほうがうまかった。氷アズキがやがてゆでアズキになっていくころに彼の食事は終りかけていた。  避難小屋の中から二人の男が同時に顔を出して、コッフェルに湯を沸かして飲んでいる加藤をあやしい男でも見るような眼で見詰めた。 「冬の富士山は初めてですか」  ひとりが|訊《たず》ねた。 「はじめてです」  加藤はそこで、彼がなし得る最大級の|愛《あい》|想《そ》笑いをした。  観測所交替要員の顔がこわばった。警戒の色が所員たちの顔に浮んだ。ふたりの所員は戸口から頭をひっこめて、再び姿を現わそうとしなかった。加藤は観測所員たちに突き放されたような気持で、しばらくそこに突立っていたが、すぐ荷物をまとめ、そこまで|穿《は》いて来たスキーを避難小屋の陰の雪に突きさして、手早くアイゼンをつけると、頂上に向って登り出した。  五合五勺の避難小屋には電話があった。観測所交替要員のひとりが、頂上の観測所と電話で話していた。 「それがものすごく足が達者な|奴《やつ》なんです。ずっと下の方にけしつぶほどに見えたのが、どんどんと追いついて来て、いま、この小屋の外で、コッフェルに湯をわかして飲んでいるんです。どうしましょうか」 「どうしましょうかって、泊めてくれといったのかね」  頂上の観測所の主任の|窪《くぼ》|沢《さわ》技師がいった。 「いや、なんとも言いません。にやにやとうす気味悪い笑いを浮べているだけです」 「とにかく小屋の中へ入って|貰《もら》って、これからどうするつもりか聞いて見たらどうかね。それから、名前を聞いてみてくれないか、ちょっと思い当ることがある……」  窪沢がいった。窪沢の指示を受けた交替要員は受話器を置くと、すぐ外に出てみた。加藤は六合目あたりを歩いていた。 「とても普通の人間とは考えられませんね。あの調子だと、今日中に頂上まで登りますよ」  所員は窪沢に報告した。 「六合目あたりだったら、もう声はとどかないだろう」  窪沢技師は電話を切って、風速計の記録装置を|覗《のぞ》きこんだ。風速は四十メートルであった。風速は増加する傾向にあった。  窪沢主任は密生したあごひげを|撫《な》でながら、おかしな男というのは、加藤文太郎ではないかと思った。窪沢は加藤を直接知らなかったが、単独行であること、無口で、微笑を浮べていたところから、かねて聞き及んでいる加藤文太郎ではないかと思ったのである。  窪沢は、次の通信連絡時間まで待って東京の気象台あて電報を打った。 「単独登山者あり、宿泊させてさしつかえなきや、現在富士山頂飛雪、風速四十三メートル」  それに対して折りかえし返事があった。 「なるべく、付近の小屋を利用するよう手配されたし、ただしその登山者が危険に|瀕《ひん》していると判断されたる場合は、保護せられたし」  窪沢主任は中央気象台の指令電報をポケットにねじこんで、防寒具をつけ、アイゼンをはき、ピッケルを持って外に出た。当時、富士山頂観測所は御殿場口東|賽《さい》の|河《か》|原《わら》(安の河原)にあった。観測所から三十メートルも歩いた岩頭に立つと、御殿場口登山道の一部が見えた。  双眼鏡で登山者の姿を探したが見えなかった。宝永山の頂上から八合目にかけて、飛雪が吹き上げていた。その状況から判断すると、七合目上は突風が激しく、登山できる状態ではないと観測された。  窪沢は観測所に引きかえすと、所員たちに、三十分置きぐらいに七合八勺の避難小屋に電話をかけて、もし登山者が七合八勺に逃げこんでいたら、今夜はそこに泊るように注意してやるようにいった。  五合五勺の小屋では観測所交替要員と|強《ごう》|力《りき》の間で、おかしな登山者についての話がつづいていた。 「あの薄気味悪い笑い顔を見たら、ぞっとしたよ」  窪沢主任に加藤のことを電話で知らせた所員がいった。所員や強力たちの加藤に対する観察は共通していた。並みたいていでない脚力を持っていること、なにか自信あり気に、薄気味悪い微笑を浮べていること、その二点であった。 「なんずらか、自殺登山者でもなさそうだしなあ」  強力の野木がいった。 「ありゃあ、ただ者じゃあねえずらよ」  強力の勝又がいった。  ただ者ではないように見せたのは加藤自身の責任だったが、加藤が好んでそうしたのではなかった。脚力の強いのは、長い間の積み上げであった。観測所員の誤解を招いた薄気味悪い微笑にしてさえも、加藤がなし得る親愛をこめた最大の挨拶だった。 (観測所のみなさま御苦労様です、私は神戸からやって来た加藤文太郎という者です。なにぶんにも、富士山ははじめてですので、同行願えませんでしょうか、そしてもし、お許しいただけるなら、避難小屋の|片《かた》|隅《すみ》に泊めていただけませんでしょうか、食糧は充分持っております)  加藤は心の中で、観測所交替要員たちにそういったが、彼らには加藤の心の声は聞えず、そのあとの微笑だけが見えた。  加藤は飛雪まじりの突風の中にあえいでいた。彼は雪と氷におおわれた夏小屋を目当てに夏山登山道を登っていた。五合五勺を出たとき、彼は頂上を目ざしていた。彼の経験による、目測と地図上の距離と傾斜角度、風、氷雪などの状況からみて、頂上まで、日の暮れないうちに到達できる自信はあった。頂上の観測所についたら、観測所員にていねいに頼んで泊めて貰おうと思った。加藤自身も五合五勺での妙につめたい別れ方が、彼自身の口不調法によるものであることをよく知っていた。重々それを知っていながらも、決して上手な言葉を使えないのだ。五合五勺を出て数分後には彼のあらゆる神経が頂上を目ざしていた。  宝永山の頂上と並び立つ位置にまで登ったときから、加藤はおそるべき突風の歓迎を受けた。突風は前ぶれなしにやって来て、彼を突きとばそうとした。突風は前から来ることも、背後から来ることも、横から来ることもあった。彼がアルプスの|高《こう》|嶺《れい》で、それまで体験した突風とはおもむきもかなり異にしていた。一般的にいって突風が起る前には前兆があった。突風の来る方向に風の気配があった。方向もおおよそ予想されているから、突風の起る方向にあらかじめ用意していることができた。ところが、富士山の突風は、どこからともなく出現した。氷雪面から|衝《つ》き上げて来たような風だった。なんの予告も前兆もなく、|闇《やみ》|打《う》ち的に襲いかかって来る風を、|身体《か ら だ》に受けると、土俵を投げつけられたような重みを感ずることがあった。最初の一撃の重圧をどうやら胸で受け止めたとしても、そのおかえしとして、逆の方向、つまり、今度は背中を同じ力でどやしつけられた場合は、どうにも身体を支えようがなかった。  ただひとつだけ突風をさける方法は、姿勢を低くすることと、突風地帯を、なんとかして、速く、通り抜けることであった。  加藤は大きなルックザックを背負ってピッケルを両手で持って、雪の上を|這《は》った。雪というよりも氷に近い固さを持ったところが多く、明らかにつるつるの|蒼氷《そうひょう》となって、夕映えの残光を反射しているところへ出ると、ピッケルのピックを打ちこむこともできないことがあった。突風性の風が強く、ステップを切っている余裕はなかった。加藤はしばしば蒼氷に張りついたまま冬富士の突風のすさまじさをいまさらのように痛感した。吹きとばされたら、その氷壁に身を|止《とど》めることはできなかった。ピッケルを打ちこんだところで、はねかえされることは明らかだった。  彼は這ったまま地形を観察した。彼が現在いるところは、御殿場口夏山登山道であり、|強《し》いていえば、七合目から頂上までのその登山道は左右の尾根にはさまれた沢だった。  突風が異常に乱れているのは、地形のせいに違いないと思った。富士山という独立巨体にまともにぶっつかって来る北西の季節風が、その風陰に作り出す|渦流《かりゅう》そのものが、突風となって出現するのだろうと思った。もしそうだとすれば、沢を歩くよりも、風が強くとも、尾根を歩いた方が安全ではないだろうか。加藤は、それまでの経験から来る判断によって、夏山登山道をやめて、その右側の尾根(東寄りの尾根)を登ろうと思った。このルート変更は賢明なる処置だった。風速四十メートルという強風のなかで、七合目以上の夏山登山道を登ることも、下ることも、きわめて危険であった。冬季は御殿場口夏山登山道の東側の尾根(現在長田尾根と呼んでいるところ)が最も安全なルートであった。加藤は|誰《だれ》にも|訊《き》かずに、彼の経験と勘によって正しい道を探し出すと、そっちの方へ道をかえていった。いままで登って来た、夏山登山道はそろそろ暗くなりかけていた。  尾根は岩がしっかりしていた。尾根の氷雪は風にとばされて少なかった。突風性の強風だったけれど、方向はかなり固定していた。前後左右から無警告に襲って来る風とは違っていた。だが、寸刻の油断もできなかった。備えのない身体を強風の中にうっかりさらけ出せば吹き飛ばされることは間違いなかった。  加藤は、岩の上を這うようにして、徐々に頂上へ近づいていった。時間の経過が不思議に気にならなかったのは、頂上に観測所があり、そこに泊めて貰うことができるという期待があったからだった。日が暮れて星が出た。眼を下界に投げると、東海道線に沿って電灯の帯が続いていた。箱根山の航空灯台の、赤い|灯《ひ》の明滅が眼にしみた。完全な防寒具をつけてはいたが寒かった。特に足や手の指先が痛かった。 (頂上には観測所がある、人もいる)  加藤はそこへ寄って、泊めて下さいとたのみこむ言葉をあれこれと考えていた。彼は、自分自身の口下手を認めていた。頂上観測所は営業用の山小屋ではない。泊めないと言われたらどうしようと考えた。彼は吹雪の北アルプスで、雪穴を掘って寝たことが何度かあった。その時は彼の体力に充分な余裕があった。体力に余力があり、時間的にもまだ明るいうちに、|乾《ほ》し小魚と甘納豆を充分食べてから、穴の中に入って、ザイルの束の上に腰をおろし、着るものは全部着こんでルックザックの中に|靴《くつ》ごと足を入れて、|雨《あま》|合《がっ》|羽《ぱ》をすっぽりと頭からかぶって寝れば、外がどんなにはげしい吹雪になっても、凍えるようなことはなかった。だが、今度は、状況を異にしていた。体力はかなり消耗していた。それに、五合五勺を出てからほとんど食べていなかった。ポケットの中には乾し小魚と甘納豆がいっぱい入っているのに、それを食べなかったのは、食べる余裕がなかったからであった。 (いつもの|俺《おれ》とは違っている)  加藤はそう思った。自分ながらあせりを感じた。いつもの彼なら、たとえ突風がどんなに強くあろうとも、食べることを忘れるようなことはなかったはずだし、まるで遭難者が救助を求めるような悲壮さで、頂上へ向って這い登っていくこともなかった。加藤は、その彼の行動が、一種の取りみだしであって、そのように彼を追いこんだのは、彼におさがりを押しつけようとした影村一夫の不信行為に対する怒りと、影村一夫を代表とする人間への抵抗であると考えた。しかし人間不信と人間逃避の中に求めた雪中富士登山が、結局は、富士山頂観測所の人間たちにたよらなければならないという矛盾について加藤はそれほど突きつめて考えてはいなかった。  加藤は強風の中をあえぎ続けた。ここまで来ると頂上に到着するしか生きる道はなかった。どこにも、身をかくすところはなく、強風の中にこのまま数時間も身をさらしたならば、身体中の体温は風に奪い取られて化石のようになって凍死しなければならなかった。  頭の中に熱いものが去来した。なんのためにこんな苦労をしなければならないのかとふと考えたり、富士山頂目ざして登っているということすら忘れようとした。強風と強風の合間に|嘘《うそ》のような静寂がごく短い間続いた。そんなとき、彼は、睡魔に襲われた。それでも彼は、突風が彼をおし倒すまでには立派に立直りを見せていた。  岩尾根道の傾斜が緩慢になると、やや平らなスカイラインの向うに、星空をバックとして、明るさが見えた。月の昇る方向ではないが、月が山から出るときの感じとよく似ていた。  加藤は足元に空虚なものを感じた。それまで彼の前進をはばんでいた地形はもはやそこにはなかった。彼は富士山頂に踏みこむと同時に、眼の前にホテルのように|煌《こう》|々《こう》と光を放っている建物を見た。 「富士山頂観測所だ」  助かったと思った。もうこれ以上歩かないでもいいと思った途端に胸が苦しくなった。彼は吐いた。胃の中はからっぽだったから、吐こうとしてもなにも出ず、せきこむような|嘔《おう》|吐《と》は胃に激痛を覚えた。  加藤は光を求めて歩いていった。宙を歩くような気持だった。  観測所は霧氷に封じこめられていて、どこが入口だかよく分らなかった。彼は観測所のまわりをぐるぐる|廻《まわ》りながら入口を求めた。雪と氷の間に、小さな|溝《みぞ》のような道が作ってあった。そこが入口だった。  入口で案内を|乞《こ》うたが人は現われなかった。風が強くて、外の声は中には聞えないだろうと考えられた。戸を引張ると、なんなく開いた。彼は暗い廊下に立って、後手で戸をしめた。|嵐《あらし》の音が急に静かになった。 「ごめん下さい」  加藤はできるかぎりの大きな声をした。  廊下の突き当りのドアーが開くと、まぶしい電灯の光が加藤の顔に当った。加藤はよろめこうとする身体をやっと持ちこたえた。 「よくこの風の中を登って来られましたね」  窪沢は|提《さげ》|電《でん》|灯《とう》をふりながら廊下に出て来ると、加藤の立っているそばの柱に取りつけてあるスイッチをひねった。廊下に電灯がついた。加藤は|髭《ひげ》の中に眼だけ光っている窪沢の顔を見た。すさまじい|髭《ひげ》|面《づら》だったが、童顔だった。 「五合五|勺《しゃく》を一時過ぎに出発したと聞いたっきりでしょう、心配しましたよ」 「はあ……」  加藤は観測所員が心配していてくれたということだけで胸がつまりそうだった。 「とにかく無事に着いてよかったですね」 「泊めていただけませんか」  加藤は短兵急にいった。いってから、まずかったかなと思った。 「食糧も防寒具も持っております」  加藤はつけ加えた。  窪沢の眼が加藤の全身をながめ廻した。しばらくの時間が経過した。 「ここは観測所ですので、泊めてあげるわけにはいきません。すぐ近くに小屋があります。そちらへ御案内しましょう」  窪沢は大きな声で|梶《かじ》さんと呼んだ。色の黒い、縮れっ毛の小男が出て来て、廊下で靴を|穿《は》き、アイゼンをつけ、防寒帽子をすっぽりかぶると、 「さあ、参りましょう」  といった。  加藤は言われるとおりに従っていた。小屋というのが、どんなところか知らなかったが、一夜の宿が得られることに感謝した。背後で声がした。 「もしもし、まことに失礼ですが、お名前は、私はここの責任者の窪沢です」  歩き出した加藤は、ふりかえっていった。 「神戸の加藤文太郎です」  加藤はそう答えながら、なぜ、名前をはじめに言わなかったかを後悔していた。      7  富士山頂|浅《せん》|間《げん》神社の前に雪に埋もれた石室があった。提電灯のもとに照らし出されるそれは、ただの雪の|堆《たい》|積《せき》でしかなかったが、その東側に掘られたトンネルの入口がはっきりと映し出されると、加藤文太郎は、そのトンネルの奥になにがあるかを了解した。加藤をそこまで案内して来た梶は、 「少し寒いかもしれませんが……」  と、気の毒そうにいって帰っていった。雪のトンネルを這っていって、戸を引くとわけなく開いた。加藤は懐中電灯を小屋の中へ向けた。二、三十人はゆうに泊れそうな面積の板の間と、立って歩けば頭がつかえそうな低い天井にはさまれた|空《くう》|洞《どう》があった。  加藤は靴を脱ごうとしたが、かちかちに凍っていてすぐには脱げなかった。彼は|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》を求めて土間を這っていった。炉はあったが、燃料となるものは、どこにも見当らなかった。彼は、ルックザックから、彼の七つ道具のひとつのアルコールランプを出して火をつけて、コッフェルの中に入口の雪をすくいこんで入れた。|食慾《しょくよく》はないが、眠る前になにか食べねばならないとしきりに考えていた。いままで加藤は、いかに暴風雪の中でも、食べるものはちゃんと食べていた。しかし今日は違った。五合五勺を出てからその余裕がなかったのである。それほど冬富士の突風に悩まされたのである。食慾を失うほど歩いたということは、体力のぎりぎりまで使ったということだった。こういう場合、なにかがあったら、簡単に遭難するに違いないのだと、加藤は自分自身をいましめた。いまさらのように冬富士のおそろしさが身にしみた。冬富士は他に類を見ない異質なものに思われた。  入口は閉ざされてあったけれど、どこからか風が吹きこんで来るらしく、|灯《ひ》がゆれた。彼は身震いをした。ひどく寒かった。外気温に比較したら、雪に埋もれた小屋はずっと暖かいはずであったが、彼には寒かった。それに小屋の中は湿っていた。水ができるとその中に彼はひとつかみの甘納豆を入れた。食慾はなくても食べねばならないと、しきりに自分をはげましながら、彼は、スプーンで、甘納豆を|掬《すく》って口に入れた。石のような固形物が胃の壁につきささったように感ずると同時に、彼は口をおさえた。  食べたものはすべて嘔吐した。彼は食べることをあきらめて寝る支度にかかった。  床には氷が張っていた。氷の上に敷くものはないから、彼は、穴でビバークしたときと同じように、ルックザックの中の着るものはすべて身につけて、ザイルの束を腰掛けにして、頭からすっぽりと、合羽をかぶって眼をつぶった。  疲れていたが眠くはなかった。さっき見て来たばかりのホテルのように豪華な頂上観測所が|瞼《まぶた》に浮んだ。廊下から、ちょっと中を|覗《のぞ》いたとき、茶色の|絨毯《じゅうたん》を敷きつめた広いサルーンの中央にはストーブが赤々と燃えていた。観測所には数名しかいなかった。泊めようと思えば、そのサルーンの|隅《すみ》でもいいし、もしそこが都合悪かったら、廊下でもよかった。そこが国家の施設であり、一般人は泊めないことになっていたとしても、その規則のみを盾にして追い出した観測所員の態度は非情に思われた。 (人間というものはすべてあの観測所員のように冷酷なものだ)  そう考えると観測所員の|他《ほか》に、冷酷な人間の顔がつぎつぎと浮んで出て来るのである。影村一夫もそうだ。佐倉秀作もそうだ。妻子を捨てた金川義助もそうだ。そして、加藤は、自分自身を、他人が見たらなんと思うだろうかと見返してみて、突然、昭和四年の冬の立山を思い出したのである。彼は土田の一行に何度か同行を願い出たが|容《い》れられなかった。彼が|従《つ》いていこうとすると彼らはそっぽを向いた。彼は追従をあきらめて、ひとりで|室《むろ》|堂《どう》に泊り、翌日|淋《さび》しさに耐えかねて、剣沢小屋にいる土田の一行を尋ねていって、そこで、みじめな拒絶に会った。その帰途加藤は白い幻覚を見た。|雪崩《な だ れ》が起きそうもないところに雪崩が起きたような白昼夢を見たのである。不幸にも、彼の白昼夢はそれから数日後に、現実となって、剣沢小屋を埋めた。加藤は、彼を拒絶した土田の顔と、観測所の主任技師窪沢とがどこか似ているような気がした。土田に拒絶されたことによって、加藤は生き長らえることができた。もしあのとき土田たちのパーティーに入っていたら、生きては帰れなかっただろう。 (もしかしたら、あの観測所に今夜のうちになにか不幸なことが……そうだ、観測所が火事になったとしたら——)  そのような|突《とっ》|飛《ぴ》な連想は疲労のせいだと思った。しかし観測所が火事にならないという可能性はなかった。雪に埋もれた石室の中にいても、外の風の音はよく聞えた。風速四十メートルを越える風の中で火が出たとしたら、おそらく所員は逃げ場を失うであろう。加藤は懐中電灯をつけて、入口に置いてあったアイゼンとピッケルの所在を確かめた。いざという時にはすぐ観測所員を助けにいくつもりだった。眠りは浅かった。夜中頭の中で風が鳴っていた。  トンネルの入口からさしこむ明りを見て、加藤は朝が来たなと思った。風は静かになったようだった。それから加藤は小一時間ほどぐっすり眠った。  ゆうべ食べ残しにしてあった甘納豆はコッフェルの中でこちこちに凍っていた。浅い眠りではあったが、一夜の休息で、加藤は体力を|恢《かい》|復《ふく》していた。彼は空腹を感じた。彼は左右のポケットから交互に、乾し小魚と甘納豆を出して口に入れると、アイゼンをつけピッケルを持って外へ出た。  観測所のことがなんとなく心配だった。霧氷にかざられた鳥居をくぐり、御殿場口登山道の末端の小さい沢をひとつ越えると、朝日に輝く観測所が眼にとびこんで来た。夜見たときと朝見たときでは、観測所は全然別のものに見えた。観測所は家のかたちをした氷のかたまりであった。エスキモーが、氷を四角に切って積み上げた、氷の家ではなく、波状型をした乳白色の氷の皮膜には、どこにも継ぎ目がなく、一様に観測所を包んでいた。|陽《ひ》が当ると、氷の一部は五色の|光《こう》|芒《ぼう》を放って輝いた。  観測所の入口から防寒具をつけた小男が|這《は》い出して来て、加藤を見かけるとすぐ声をかけた。梶だった。 「ちょうどよかった、あなたを迎えに行こうと思って出て来たところです」 「ぼくを迎えに」  加藤は、なぜそんな必要があるのかと思った。 「今朝は昭和八年一月|元《がん》|旦《たん》です、つまりお正月なんです」  さあどうぞと、梶が先に立った。中央ホールにあるテーブルの上に、食べ物が並べられてあった。  加藤は|椅《い》|子《す》にすすめられて|坐《すわ》った。明るい外から入って来たので、食事が並べられてあることと、そのまわりにいる五人の所員の輪郭だけしか分らなかったが、 「加藤さん、|昨夜《ゆ う べ》はどうも失礼しました。寒かったでしょう」  という窪沢の顔が分るようになると、眼の前に並べてある食事が、正月の|御《お》|節《せち》料理であることに気がついた。雑煮の|匂《にお》いが鼻をついた。迎えに来た梶が、つまりお正月なんですといったのは、この料理のことだなと加藤は思った。 「どうぞたくさん召し上って下さい」  窪沢は、加藤の前に、|小《こ》|皿《ざら》と|箸《はし》を置いていった。加藤は妙な気持だった。|騙《だま》されているようでへんだった。昨夜は追い出され、今朝は、御節料理にありつこうとは思っていなかった。加藤は、なんともいわず、黙りこんで、前の料理を|眺《なが》めていた。 「さあどうぞ」  ひとりの所員が|茶《ちゃ》|瓶《びん》のつるを持っていった。茶瓶には朝顔の花が咲いていた。 「|茶《ちゃ》|碗《わん》を出して下さい」  所員は、茶瓶を重そうに前後に振っていった。加藤はあわてて前に置いてある|茶《ちゃ》|呑《のみ》茶碗を取り上げた。お茶は湯気を立てて加藤の茶碗いっぱいにそそがれた。ひどく黄色の勝った茶だと思った。加藤は、おしいただくようにして一口飲んだ。それは茶ではなく|燗《かん》の|利《き》いた酒だった。 「お酒ですね」  加藤はびっくりしたような声を出した。 「すみません、こんなところだから、お|屠《と》|蘇《そ》がないんです、酒で我慢して下さい」  窪沢がすまなそうにいった。加藤は、なにか胸に熱いものを感じた。それが、顔に出るのをかくすように、いささかあわてた手つきで、茶碗いっぱいの酒を飲み|乾《ほ》した。彼は酒が|嫌《きら》いだった。少なくともそう思いこんでいたが、その酒はうまかった。それは、酒宴の酒ではなく、富士山頂の正月の酒であった。酒は、加藤の腹の中でぎゅうぎゅう鳴った。 「さあどんどん食べて下さいよ」  窪沢は、きんとんに手を出しながらいった。所員がいっせいに食べはじめた。加藤は、コブ巻きと、ゴマメを皿に取った。梶が雑煮を飯茶碗に盛りこんでくれた。 「なんとかしてあなたを泊めてあげようと、中央気象台とかけ合ったのですが……」  窪沢は電報のことを話し出した。 「ふたつきほど前に、登山者を泊めたことでまずいことが起きましてね。それからは|予《あらかじ》め申し込んでない登山者は泊めないことになったのです」  どんなまずいことが起きたのか窪沢はいわなかった。登山者には悪いのもいるし、いいのもいる。おそらく、悪い部類の登山者がやって来て、観測所にひどく迷惑を掛けたに違いなかった。 「泊めないことになったといっても、実際ここに観測所があるのに、雪の中のあの寒い石室に泊れとはなかなかいえないものなんです。だから、ひとこと、御殿場からでも、太郎坊からでもいいから連絡していただくと、こっちでは、あらかじめ申込みがあったということにして泊めてさし上げることになっているのですが、加藤さんの場合は——」  窪沢は加藤の顔を見た。加藤の顔は酒が|廻《まわ》って真赤になっていた。 「いや、ぼくがいけなかったんです。途中で観測所の交替の方々に会ったときも、泊めて下さいとはいいませんでした」 「どうするつもりでしたか」  所員のひとりがいった。 「頂上についてから、お願いしたら泊めていただけると思っていました」  加藤は頭を|掻《か》いた。所員たちは笑った。所員たちの笑い声を聞いて、加藤も声を出して笑った。笑いが終ってから、加藤はふと、声を出して笑ったことなど、ここしばらくはなかったことのように思った。照れかくしに頭を掻く癖も、このごろはあまりやったことはなかった。加藤は、ひどく楽しくなった。浮き浮きした気持になったのはいっぱいの酒のせいかとも思った。雑煮はうまかったし、御節料理のなかのきんとんは特にすばらしかった。  加藤は満腹した腹をかかえて、ふと不安になった。いったい、この好遇に対していかなる形で謝恩すべきであろうか。解答はでなかった。  加藤はなにかしゃべるべきだと思った。こういうときに黙っていると、また誤解を招くに違いないと思った。 「単独行をやっていると、ずいぶんつらいことがあるでしょう」  観測所員のひとりがいった。 「つらいこともあるし、けっこう楽しいこともありますよ」  加藤は山の話を取りとめもなく始めた。不思議に口がよく滑った。酒のせいかもしれないと思った。所員たちの話の引き出し方もうまかったし、窪沢が|髭《ひげ》だらけの|相《そう》|好《ごう》を崩した笑い方もよかった。加藤は初対面の人たちの前で、なぜこんなに急速に打ちとけることができたかわからなかった。富士山頂という特異性が、自分を変えたのだと思った。加藤は観測所に二時間あまりいてからそこを出て剣ヶ峰の頂上に向った。 「加藤文太郎ってなかなか|面《おも》|白《しろ》い男じゃないですか、変人のように|噂《うわさ》されていますが、そんなところはありませんね」  所員のひとりが加藤の後姿を見送りながら窪沢にいった。 「一応その道のベテランといわれる人には、どこか変ったところがあるものだ。変人というほどのことがなくても世間では変人にしてしまうのだ」  東|賽《さい》の|河《か》|原《わら》から神社の方へおりようとしていた加藤が、急にくるりと方向をかえた。なにか忘れ物でもしたようだった。加藤は観測所の入口の雪の掘割のところに立っている所員たちのところに|戻《もど》って来ると、 「火の元だけはよく気をつけて下さい。実は昨夜、観測所が火事になった夢を見たんです」  夢ではなく、そんなことを考えただけのことだったが、加藤にしては火気注意を、もう一度観測所の人たちに念を押して置きたかった。加藤はそれだけいうと、それでなにもかも満足した顔で、神社の方へとっととおりていった。 「やっぱり変っている」  所員のひとりがいった。 「だが、いいことをいってくれるじゃあないか。われわれは火気注意に対して、少々マンネリになっていたようだ」  別の所員がいった。 「とにかく、あのひとが、無事山をおりていくまでは|眼《め》を離さないことだ、われわれは、一般登山者について、|何《なん》|等《ら》の責任がないようだが、実は大いにあるのだ。ここに住んでいるというだけで、登山者の人命についての道徳的責任は負わねばならない」  窪沢は防寒具に身をかためると、ピッケルと双眼鏡を持って外へ出ていった。  加藤は剣ヶ峰に立った。  そこには霧氷におおわれた一本の風向計が立っていた。太平洋側はよく晴れていたが、中部日本の山々は雲におおわれていた。北アルプス方面が見えないことが残念だった。加藤は同じ場所に何年か前の夏に立ったことがあったが、たいして感激はなかった。その時は高さも感じなかったが、今は高さを感じた。いままで彼が踏破したいかなる山よりも、確かに富士山は高いと感じた。剣ヶ峰には一定風速の西風が吹いていた。体感で、二十数メートルと思われた。突風性の風ではなく、ちょうど、水の流れにさからって立っているような風圧を受けているのだから不安感はなかった。昭和八年一月一日の富士山頂にひとりで立っていると考えただけで痛快だった。  頂上に立ってぐるぐる|見《み》|廻《まわ》していると、東賽の河原の観測所の塔の上に人影を見た。加藤がピッケルをあげると、観測所の塔の上の人も手をあげて|応《こた》えた。  加藤は頂上をおりた。固い氷だったが、アイゼンの|爪《つめ》はよく効いた。剣ヶ峰をおりた足で彼は氷におおわれた|浅《せん》|間《げん》神社に向い手を合わせると、昨夜泊った石室へ這いこんでいってルックザックを引張り出した。  加藤は剣ヶ峰の頂上を踏んだとき下山を考えていた。きのう彼を悩ました突風はおそらく今日も吹くに違いない。それは午前中よりも午後の方が確率は高い。加藤は下山道についてしばらく考えたが、結局は、きのう登って来た尾根道を下ることにした。|相模《さ が み》|湾《わん》の上に雲が広がりつつあった。  加藤は七合目付近で、登って来る観測所の交替員の一行と会った。 「頂上ではいろいろお世話になりました」  加藤の方から声をかけると観測所交替員の固い表情が解けた。交替員たちと別れて、ひとりでおりていく雪の斜面からの反射光線は、雪眼鏡をとおしてもなおかつ、まぶしかった。しかし、それもそう長いことはなく、下界の雲がだんだんと持ち上って来てやがて視界を一片の積雲が横切ると視界が閉鎖された。加藤は、きのう登って来たシュプールからはずれないように、ゆっくりおりていった。きのう、ここを登るときは必ずしも明るい気持ではなかった。神戸からずっと彼の後を追って来た人間不信の暗い重さが、彼の背にかかっていた。だが、いまの彼の心は軽かった。晴れやかであった。彼は太郎坊についてから頂上をふり仰いだ。頂上は雲の中にあった。  宮村|健《たけし》は歌が上手だった。山の歌もよく歌ったが流行歌をすぐ覚えて来て、加藤の下宿で歌ってみせた。 「いままで宮村さんが、二階で歌を歌っていましたわ、二時間半もいたかしら、いま帰ったばかりよ」  会社から帰って来た加藤に金川しまがいった。加藤は宮村健が勝手に二階へあがることを許していた。山の本を勝手に読むことも許していた。宮村健は、ふらりと加藤の下宿に現われて、加藤が聞いていようがいまいがいいたい放題のことをいったり、なにもいわずに二時間も三時間もつづけて本ばかり読んでいたり、|機《き》|嫌《げん》がいいと、窓に腰かけて流行歌を歌った。  加藤はそういう宮村健を放ったらかしていた。いちいち相手にはなれないから、宮村健のことはかまわず、加藤は加藤で、会社から持ち帰った仕事の続きをやったり、山道具の手入れをしたりした。気が向けば宮村健の話の相手になったが、ふたりが話しているときよりも別々の行動をしているときのほうが多かった。  宮村健がやって来ると、加藤はだまって十銭玉を三個彼の前に突き出した。すると宮村は万々承知の顔で、階段をがたぴしおりて、|鯛《たい》|焼《やき》を買いにいった。宮村が帰って来ると、金川しまが気をきかして、お茶を運んで来た。加藤は鯛焼のいくつかを、紙に包んで、坊やにといってしまに渡した。 「あなたがたは、話もせずに、勝手に本を読み、勝手に歌を歌っていて、それでなにが面白いのでしょうね」  金川しまがあきれた顔でいったことがあった。面白いかといわれると、特に面白いこともないけれど、加藤は、そばに宮村健がいるとなんとなく楽しかった。加藤は末子だから弟を持ったことがない。寝ころんで本を読みながら鯛焼を食べている宮村健を見ると、ふと弟がいたら、多分こんな格好をするだろうと思った。  その日も加藤は、もしかしたら宮村が来ていないかと思って、いそぎ足で帰って来たのだが、宮村が帰ったあとだと聞いて、|拍子《ひょうし》抜けしたような顔で、金川しまにいった。 「歌を歌いつづけていたんですか、宮村君は」 「そうなんですよ加藤さん、どこまでつづくぬかるみぞっていうあの歌を、悲しそうな声で、繰りかえし、繰りかえし歌っていたわ」 「悲しい声で?」 「そう、なにか泣きながら歌っているように聞えるときもあったわ」  金川しまはその歌を口ずさんだ。 [#ここから2字下げ] どこまで続く|泥濘《ぬかるみ》ぞ 三日二夜を食もなく 雨降りしぶく鉄かぶと…… [#ここで字下げ終わり] 「|討《とう》|匪《ひ》|行《こう》」という流行歌であった。奉天に端を発した日支事変は、その後、とどまるところのないように発展していった。満州全域に日の丸が立ち並び、戦火は華北へ延びつつあった。  加藤は山の歌を時々歌ったけれど、討匪行は歌ったことがなかった。人が歌っているのを聞くと、|泥《どろ》にまみれた|軍《ぐん》|靴《か》の音が聞えるような気がした。どこまで続くという文句が、この戦争の行方を暗示しているようで不安だった。宮村健がこの歌を悲しい声で歌ったということは|解《げ》せなかった。加藤は階段を登り切って、彼の部屋の障子を開けた。男の体臭がぷんと鼻をついた。そろそろ暑くなるというのに、宮村は部屋を閉め切って歌を歌っていたのに違いない。  隣の部屋から人の出て来る気配がした。 「加藤さん」  隣室の油谷常行は|風《ふ》|呂《ろ》へでもいくつもりなのか、|手拭《てぬぐい》を肩にかけていた。 「あなたのお友達の宮村さんという方ね、最近恋をしているでしょう、たいへん熱烈な恋を」  加藤は油谷のぶしつけな話しかけに、驚いた顔をしたが、服は脱がずに、そのまま廊下へ出直して来て油谷と向い合った。  加藤の隣室は、入口がドアーで一見洋室風だったけれど、中は畳敷きだった。加藤がこの下宿に来たころは開かずの間であったが、その後、金川夫婦が住み、さらに会社員の油谷が住みつくようになってから畳替えがされた。加藤と油谷が言葉を交わしたのは、その畳替えの最中に一時的に油谷の荷物を加藤の部屋に持ち込んだ時ぐらいのものだった。朝は加藤の方が早く出勤するから、油谷と階下の茶の間で顔を合わせることはなかった。油谷は帰りがいつも遅いから、夕食は外で食べることにしていた。 「あの討匪行という軍歌は、腹の下に、力をこめて、一歩一歩ふみしめながら前進するような気持で歌うのがほんとでしょう。ところが宮村さんの歌い方は前進の軍歌ではなく嘆きの軍歌なんですね。たとえば、こんなふうに……」  油谷はその|真《ま》|似《ね》をしてみせた。 「なんだか、気になったので、通りがかりに障子の破れ穴から|覗《のぞ》いて見ると、彼は畳の上に寝ころんで、涙を浮べながら歌っているのです。だから私は、すぐ目下恋愛中だなと思ったんです。私の友達にそういうのがいたから、そう思っただけのことなんですがね、ああいう顔の男——なんていったらいいかな、少年の|面《おも》|影《かげ》が残っていてどこかちょっと弱々しさがあって、それでいて情熱的な眼をしている男は、よく年上の女に|可愛《か わ い》がられるものなんです。そして、その年上の女にほんとうに|惚《ほ》れて、惚れ抜いて、最後には|棄《す》てられるってことになるものですよ。しかしね加藤さん、あの宮村さんて人はまだ女は知りませんね」  油谷はにやっと、ひとつ、|猥《わい》|雑《ざつ》な笑いを残して階段をおりていった。  加藤は油谷のいったことが気になった。宮村健が恋をしているとすれば、相手は園子しかない。どこまで続く泥濘ぞというのは、宮村自身、恋の泥濘に踏みこもうとしているのではなかろうか。加藤は不安なものを感じた。園子が悪女であるという証拠はない。加藤も、かつては好意を寄せていた女である。が、いまの園子には男がついていることはほとんど確実に思われた。しかし、宮村のほうでは一方的に熱を上げて一日一度は、喫茶店ベルボーに顔を出しているらしい。園子の顔を見なければ眠れないなどということを加藤にいったこともあった。 (それにしても、悲しい軍歌ってのは……分らない)  加藤は、ナッパ服を脱ぎ、|浴衣《ゆ か た》に着かえて、風呂へ行く支度にかかった。安全かみそりの入った箱を探すために、机上のスタンドのスイッチをおすと、そこに置手紙があった。 「園子さんと六甲山へ登ることになりました。ただし、園子さんは加藤さんも一緒でなければ行かないといっています。ぜひ御同行下さい。次の日曜日です。明日の夜また来ます。万歳」  なにが万歳なんだと加藤は思った。加藤は女連れで、山を歩いたこともないし、歩きたいと思ったこともなかった。およそ、女や子供連れで、山を歩くなどということは考えたことはなかった。どんな低い山でも、一度山に入りこめば彼は、彼の出し得る力をフルに出して歩いた。他人が一時間で歩くところを彼は三十分で歩いた。他人が雨に負けて引返しても、彼は|濡《ぬ》れたまま歩いた。山には、めったなことで頭をさげなかった。山と戦をしているつもりではなかったけれど、|遊《ゆ》|山《さん》でないことだけは確かだった。その彼に、園子を加えての山歩きの話を持ちこんで来た宮村に腹を立てた。  加藤はその手紙を破いて棄てた。  翌日、加藤が会社で仕事をしていると、園子から電話があった。 「可愛い登山家がね、どうしても私を山へつれていきたいんだって、だから私は、加藤さんが一緒でなければ|嫌《いや》だといってやったのよ。どう加藤さん、行ってくださるわね。ね、加藤さん、ほんとはわたし、加藤さんとふたりだけで山へ行きたいのよ」  甘ったるい声だった。もともと園子はねばりつくような話しっぷりをする女だったが、近ごろは、商売がら甘ったるさに輪をかけて話すから、まともに、そのことばを浴びせかけられると、加藤でなくとも一瞬、どぎまぎして言葉に窮してしまうのである。加藤はすぐ返事ができずに、送話器に向ったまま、突立っていた。 「では、行って下さるわね。ありがとう加藤さん、うれしいわ」  うれしいわの最後が|尻《しり》|上《あが》りに延びて、そして、それでも彼女は、加藤がまだうんともすんともいわないのが気になったのか、ね、いいわねとつづけて念をおした。 「今度の日曜日ですか……まあね」  まあねとは皮肉な答え方だったが、明らかに否定ではなく肯定の部類に属していることばだった。園子は、弁当は私が用意します、といって電話を切った。加藤は額の汗を|拭《ふ》いた。 「ひどくこみ入った電話のようだね」  電話機のそばを影村一夫がそういって通っていった。園子のせいいっぱいの声が受話器を通して影村に聞えたかも知れないと思った。電話の内容はわからないにしても加藤が女と話していることぐらい、そういうことには勘のいい影村のことだから、気がついたに違いなかった。  その週の金曜日の朝になって、加藤は影村に呼ばれた。 「加藤君、|横《よこ》|須《す》|賀《か》まで出張して来てくれないか」 「横須賀ですって」 「そうだよ、海軍がドイツ製の内火艇を購入したんだ。そのエンジンを見て来てもらいたいのだ。見学は来週の月曜日の朝からということになっているから、土曜日の夜か、日曜日の朝ここを|発《た》てばいいだろう」 「日曜日の朝ですか」  加藤は|鸚《おう》|鵡《む》がえしにいった。日曜日の朝発つということになると、園子との約束はだめになる。日曜日に山へ行って、その日の夜行でいったら間に合わないだろうかと考えていると、 「日曜日に山へ行く予定でもあるのかね。山はいい、立木海軍技師もそういっていた。しかし日曜日に山へ行って、夜行で出張に出かけるなんてことをしたら、向うについても仕事はできない。見学ってのは、短時間に頭を最大限に働かせなければならない仕事だ。前の夜はよく眠っておかねばならない」  影村は、加藤の心の中を見透したようにちゃんと|釘《くぎ》をさした。 「どうだね加藤君、行ってくれるかね。いやなら|他《ほか》の者をやるが——」 「参ります」  加藤は答えた。社用である。嫌だといっても、|拒《こと》わることのできるものではないことを充分知っていながら、嫌なら他の者をやる、などという影村のいい方が憎らしかった。影村が、園子と加藤との約束を承知の上でわざと出張に出そうとしているようにも思われた。  加藤は横須賀の出張が嫌ではなかった。園子と六甲山へ登るより、横須賀へ行く方がよほど意義のあることだった。加藤が、横須賀の出張に対して、やや渋ったのは宮村健のことだった。加藤が行かないとなると園子は行かない。そうなったときの宮村健の失望の顔が見えるようだった。宮村が|可哀《か わ い》そうだなという気持が、加藤に、その出張をちょっぴり渋らせたのである。  その夜、彼の下宿へやって来た宮村健に加藤は出張の話をした。宮村は顔色を変えたが、すぐ明るい顔を取り|戻《もど》していった。 「加藤さん、お願いですから、その話を園子さんに黙っていて下さいませんか。日曜日の朝になって、園子さんに、私からいいます。加藤さんは急用ができて、今朝横須賀へ行ったと、私が弁解します」  宮村健は案外な|智《ち》|恵《え》|者《しゃ》だなと加藤は思った。山へ登る支度をしてやって来た園子に急に加藤が来られないといえば、園子はがっかりするだろう。しかし、園子の性質として、それでは私は山へは登らないといって引きかえす女ではない。おそらく園子は宮村と六甲山へ登るだろう。 「考えたな——」  加藤はつぶやいた。 「お願いです。加藤さん、園子さんには黙っていて下さいませんか」 「向うから電話がかかって来ないかぎり、こっちからはいわないでおこう。だが問合せがあったら出張のことは話すよ。ぼくには|嘘《うそ》はいえない」  加藤は、そうはいったものの、なにか心の中にわだかまりが残った。結果的に、加藤の出張が宮村と園子を接近させることになりはしないかと思ったのである。|杞《き》|憂《ゆう》かも知れないが、そんな予感が、加藤の頭の|隅《すみ》の方を横切ると、 「なあ宮村君、園子さんは、君より年上なんだぜ。それにああいう商売をしている女は……」  あとがつかえた。 「年上だってかまいません。恋には年齢はありません。それに加藤さん、ああいう商売っていういい方自体がおかしいじゃあないですか。あなたは園子さんの職業を|軽《けい》|蔑《べつ》しているのですか。偏見というものです、それは」  突っかかるようにいう宮村健のことばを加藤ははじきかえすことはできなかった。加藤は、結局、宮村は行きつくところまで行かないと、眼は覚めないだろうと思った。 「とにかく、男としても、女としても、自分の行為には責任を持つことだ」  加藤は、その訓戒とも自戒ともつかないことばを吐くと、後頭部に手をやって、畳の上にひっくりかえった。天井に|蛾《が》が一匹止っていた。青く輝く羽根をした蛾であった。蛾は死んだように動かなかった。      8  園子は宮村健のいいわけを黙って聞いていた。加藤文太郎に急に出張命令が出て、今朝早く横須賀へ出発したということは園子を納得させたが、宮村健が、そのことを、あたかも彼の責任でもあるかのごとく、何回も繰り返していうのは少々おかしかった。園子は苦笑しながら、加藤がいなくとも、その日の山行を実行しようといいたげな顔でいる、可愛い登山家宮村健にいった。 「加藤さんが来ないとなるとアベック登山ということね」  当時はアベックということばが|濫《らん》|用《よう》されていた時代だった。二人連れという意味のほかに、現在一般的に使用されている、デートの意味にも転用されていた。だからアベックといわれただけで宮村健は、なにかもうたいへん親密な関係を、園子によって暗示されたような驚きと期待を持った。園子は白ずくめの服装だった。帽子も、ブラウスもスラックスもズック|靴《ぐつ》も白かった。ただ彼女の大きな手さげに浮き出して見えるバラの花模様だけが、彼女の服装と違和感を持っていた。その中には三人分の昼食が用意されていた。 「ちょっとこのピッケル見せてちょうだい」  園子は、宮村健が、彼女の手さげカバンを彼のルックザックにおさめるのを横眼で見ながらいった。六甲山に登るのに、ピッケルを持って来るのはおかしかった。宮村はそれを充分知っていたけれど、園子に見せるために持って来たのである。|誰《だれ》が見てもいっぱしの登山家に見えるような服装、それこそ、宮村健が、園子に対してなし得る最大の虚飾であった。  ふたりは北土橋から六甲ケーブルに乗った。 「私、はじめてよ、このケーブル」  園子はそういって、両手をシートに突いて、スプリングを試すようにぴょんぴょんはねて見せた。 「ぼくだってはじめてです。たしか去年でしょう、このケーブルが完成したのは。ケーブルが完成したと同時に、六甲山は無くなったと同じだと加藤さんがいっていました」  宮村は窓外の景色に眼をやりながらいった。 「でも、ケーブルができたから、誰でも六甲山へ登れるようになったのじゃなくて」 「無いほうがいいな、山は足で登るものだ」 「ほんとうね、宮村さんのその服装も泣くし、このピッケルも泣くわね」  乗客がいっせいにふたりの方を見た。宮村健の登山姿も、少々こけおどしに見えたが、乗客の眼は、宮村よりむしろ園子の方へ向いた。当時、スラックス姿はごく|稀《まれ》であった。宮村は、いささか得意そうに、暑いのに無理して着てきた、チョッキのポケットに両手を突込んでいった。 「西六甲から東六甲まではたいしたことはないけれど、水無山、大平山、岩原山、|譲葉山《ゆずりばやま》、と縦走していくにしたがって、だんだん山らしい山になっていきます」 「ピッケルが必要なような山にですか」 「場所によってはね」 「それで結局はどこへ着くの」 「|宝塚《たからづか》です」 「えっ宝塚?」  園子は宝塚という地名が二つあるかと思った。神戸から宝塚まで電車に乗っていく感じからすると、とても歩いて行けそうには思われなかった。 「宮村さん、冗談いっているんじゃなくて」  園子は、少々心配になって来たのか、声を落していった。 「充分に研究して来たのですから大丈夫です。園子さんの足でも、八時間あれば宝塚へつきます」 「八時間、ずっと歩きつづけるの?」 「途中で、無理のようだったら山をおります」  園子は頭で考えた。西六甲山に十時について、すぐ歩き出しても、八時間というと、午後の六時になる。彼女はそんな長い時間歩いたことはなかった。 「いいわ、歩けるだけ歩くけれど、歩けなくなったら」 「ぼくが背負って山をおります」 (この可愛い登山家は私に献身しようとしているのだわ)  園子は心の奥の方でくすぐったいものを感じながら、この可愛い登山家が、|如《い》|何《か》なる献身ぶりを示すかについて考えた。荷物は全部持つだろう。足元のよくないところは、手を取ってくれるだろう。へばったら背負って山をおりるという。 (そして……)  彼女はその先を考える。 (しかし、この可愛い登山家はそれだけしか、なにもできないに違いない)  彼女の直感を|以《もっ》てすれば宮村健は童貞であり、しかも、女に手を出すことのできるような男ではないことがはっきりしていた。すると彼の園子に対する献身は、単なる|家《か》|僕《ぼく》的なもので終り、せいぜいその最後に、熱っぽい眼をして好きだとひとこということぐらいだろう。 「宝塚まで私をほんとうにつれていってくださるの」  西六甲山頂から東六甲山に向って歩き出したとき、園子はそれまでになく|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔をしていった。 「全責任は私が負います。道ははっきりしているし、天気はいいし、なんの心配もありません」 「あなたと二人で誰もいない山の中にいるってこと自体が危険じゃないかしら」 「ぼくを信用しないんですか、ぼくはそんな男じゃありません」  真赤な顔をして否定する宮村健を見ていると、園子はどうにもならないほどのおかしさがこみ上げて来る。 「信用するわ。でも、私が、いやだといったら、いつでも山をおりるって約束していただきたいの」 「よくわかりました」  六甲山の尾根続きの道は暑かった。それでも|眺望《ちょうぼう》のいいところに出て、海の方から吹いて来る風に当っていると、暑さは|直《す》ぐ忘れてしまうし、なによりも園子にとって楽しいのは、宮村健が、すべて彼女のペースに合わせて行動してくれることだった。園子が休みたいといえば、宮村は、すぐその場所を見つけてくれるし、水を飲みたいといえば、すぐ水筒を出した。そのくせ宮村健は食事のとき以外ほとんど水は飲まなかった。 「あまりゆっくりしていると……」  宮村健が、時間について、やや心配そうな顔を示したのは、石の宝殿あたりへ来たときであった。園子を先に立てて、自由に歩かせていた宮村健がそこから先に立った。たえずうしろを気にしながら宮村健が園子を一定のペースに持ちこもうとしていることがわかって来たころから、園子は宝塚を意識するようになった。その辺まで来ると人はまばらだった。園子は、宮村の後からゆっくりと|従《つ》いていった。宝塚まで行きたいけれど、疲れたらどこからでも山をおりられるというわがままな気持が園子のどこかにあった。登り下りの多い単調な道だった。  大平山まで来たころ園子は疲労を感じた。 「わたし疲れたわ。それになんだか天気がおかしいんじゃないかしら」  空は黒雲におおわれていた。夕立が来そうだった。彼女は山をおりたいといい出した。午後五時を過ぎていた。 「ここまで来たら、宝塚へ出るのが一番順当だと思いますけれど」 「それどういう意味ですの、宮村さん。あなたは、私が帰りたいといったら、いつでも山からおりるっていっていたでしょう」 「これからはずっと、おりる道なんです。途中から谷へおりる道もあるにはありますが、うっかりすると道を迷わないとも限りません。疲れたら、ゆっくり歩けば、いいんです。ゆっくり歩けば、間違いなく宝塚へつきます」 「もうどのくらいかかるの」 「そうですね。あと二時間……」  宮村は嘘をついた。園子の、その歩きっぷりでは四時間はかかるだろうと思ったがほんとうのことをいえば、彼女が元気を失ってしまうから二時間といったのである。  園子はやむなく歩き出した。  譲葉山あたりで日が暮れた。宮村は懐中電灯をつけて、園子のうしろに|廻《まわ》った。 「わたしたち遭難したのかしら」 「とんでもない園子さん、登山って、少しおそくなると、こういうふうに懐中電灯をつけて歩くのが当り前のことなんです」 「あなたがたには当り前かもしれませんが、わたしにはちっとも当り前ではないわ。だいたい、全然山を知らない私をこんな目に会わせて失礼じゃないの」  園子が怒ると、宮村は、すみません、すみませんと謝るのだが、その謝り方がいまにも泣き出しそうに恐縮しきっているのがよくわかるから、園子はついそれ以上宮村を責めることはしなかった。夜になると歩調が固定した。疲労が固定したような気持だった。園子はときどき、深夜の山の中をたったひとりで歩いているような錯覚にとらわれた。そんなとき彼女はよくつまずいた。懐中電灯は彼女の足元を照らしていた。彼女は黙って、懐中電灯の明るい円の中を歩いていけばいいのだった。なにかの折にふと眼を足元からはずすと、その暗さはたとえようもなく深かった。時折稲光があったが、雷雨はほど遠いところにあるらしく、雷鳴は聞えなかった。しかし、ふたりが、いよいよ東六甲の縦走を終って、塩尾寺へついて、石の階段で休んでいるとき雨が来た。宮村は雨具を出して園子に着せた。 「たいした雨ではない、おそらく宝塚までいかないうちに|止《や》むでしょう」  宮村はそういって、重い足をひきずるようにして歩く彼女をはげましながら雨の中へ出ていった。しかし雨は止まなかった。間もなくどしゃぶりになった。びしょ|濡《ぬ》れになって宝塚へついた園子は寒さと疲労で、ろくろく口が|利《き》けなかった。ふたりが旅館についたときは九時を過ぎていた。 「そのまますぐお|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》にどうぞ」  女中が園子をささえるようにして湯殿へつれていくのを見ながら宮村は、これで園子とのことはすべておしまいになるのだと思った。宮村もすぐ湯につかった。園子が隣の|浴《よく》|槽《そう》にいるかどうかわからなかった。隣の浴槽から物音は聞えなかった。無理しなければよかったと思った。東六甲で引きかえせばよかったのだと悔いたが、もうおそかった。  園子に|軽《けい》|蔑《べつ》され憎まれるだろうと考えると涙が出そうだった。風呂から出た宮村は|浴衣《ゆ か た》に着かえ、女中に案内されて二階への階段をゆっくり登っていった。空腹を感じた。なにか食べたいと思うのと同時に、神戸へ帰るべき電車の時刻が心配になった。園子はなかなか湯から上って来なかった。あまり疲労したので、湯の中でどうにかなったのではないかと考えられるほど彼女の湯は長かった。  だから廊下を女中となにか話しながら歩いて来る園子の声を聞いたとき宮村は、ほっとした。救われたような気持だった。 「こんなすばらしいお風呂って生れてはじめてよ」  園子はうしろ手で|襖《ふすま》を閉めると、宮村に|艶《えん》|然《ぜん》と笑いかけたのである。風呂上りに化粧した園子は見違えるほど美しかった。 「でも疲れたわ、ほんとうに疲れたわ……あらどうしたの、そんなに私の顔ばかり見て」  園子は、|膝《ひざ》を崩して|坐《すわ》りながらいった。宮村が風呂上りの彼女の美しさにうっとりしているのを承知の上でそういったのである。 「すみませんでした園子さん。まったくぼくの計画が悪かったんです」  宮村は園子の前に手をついて|詫《わ》びた。彼女が風呂から上って来たら、そうしようと考えていたことだった。 「いいのよ。もう私の|機《き》|嫌《げん》は直ったわ。お風呂に入って、あったまって、元気が出て来ると、一日中、歩きつづけたことが、なにかこう楽しいことのように思われて来るのよ」  女中たちが|食膳《しょくぜん》を持って来て、二人の前に置いてさがっていった。 「さあ食べるのよ、食べて、一晩寝れば明日には、疲労は消えるわ」  園子はそういいながら、|椀《わん》のふたを取った。 「一晩寝ればって、今夜ここに泊るんですか」 「だって、私びしょ濡れよ。着替えだって持っていないでしょう。帰れったって無理よ」  園子はよく食べたし、よくしゃべった。宮村のおかげで、いかに今日一日ひどい目に会ったかという話をしながらも、少しも宮村を憎んでいる様子は見えなかった。宮村は、平常でない園子を見た。疲労が園子を一時的な|昂《こう》|奮《ふん》状態におとし入れているのだと思った。そういうことは、山歩きをしているとよくあった。ひどくつらい山行をして小屋についたとき、むちゃくちゃにしゃべりたくなるのは疲労が|刺《し》|戟《げき》になった一時的な昂奮であった。時によると昂奮しすぎて、眠れないこともあった。だから宮村はいま園子が一種の昂奮状態を示しているのも、一時的な現象であって、やがて、なだれのようにおしよせて来る|倦《けん》|怠《たい》|感《かん》と眠けが彼女を沈黙させるだろうと思っていた。  しかし食事が終り、女中たちがふとんを二つ並べて敷き、|蚊《か》|帳《や》を|吊《つ》ってさがっていったあとも、園子のおしゃべりは止まなかった。  障子を明けると庭に面した縁側に、|籐《とう》|椅《い》|子《す》が二つ置いてあった。庭の外灯が池に反射して、そこだけが妙にまぶしかった。籐椅子に向い合って坐っていながらときどき彼女は足を|擦《す》り合せるようなことをした。宮村は、多分彼女は、足のだるさをそうしていたわっているのだろうと思った。しかしその格好は、なんとしても宮村の気になった。そういう動作をすると、浴衣の|裾《すそ》が乱れるから、彼女は無意識にそこを合わせようとする。そしてすぐまた彼女は同じように、足と足とを浴衣の下でもみ合せるような格好をするのである。 「とてもおかしな気持なのよ」  と園子がいった。 「なにが?」 「なにがって、こまったわ、……さっき雨でびっしょり濡れちゃったでしょう。下着まですっかり濡れちゃったから、|穿《は》いていないのよ」  園子はそういうと、そっと、浴衣の前を、かなり危険なところの手前まで開けて見せた。  宮村はその白いものに|身体《か ら だ》を固くして耐えた。園子がなぜそのようなことをしたのか彼にはわからなかった。彼は自制することだけに懸命になっていた。宮村は、白いものを見た眼に罰を与えるために、両手を膝の上に置いて、眼を伏せた。園子が、なにかいっても、顔は上げないつもりだった。  園子が籐椅子から立上って蚊帳に入ったが宮村はじっとしていた。 「ちょっと、宮村さん、私の足|揉《も》んでくれない。とてもだるくて、眠れそうもないわ」  宮村は黙っていた。なにか、そうすることはいけないことのように考えられた。園子は好きだった。そばへ行きたいけれど、そこにはなにか非常に重大な危険がひそんでいるような気がした。宮村の頭の中のどこかには、ほとんど一日中、園子がいた。頭の中の園子は、彼に話しかけたり笑ったりした。時によると、映画で見るキスと同じことを園子と演じている場面を想像することもあったし、園子を喫茶店ベルボーに訪ねた夜などは自慰行為の対象に園子を求めることもあった。しかしそれらはすべて観念上の園子であって、足を揉んでくれという園子ではなかった。 「ね、はやく宮村さん」  蚊帳の中で園子が寝がえりを打つ気配がした。今年になって初めて見る青蚊帳の波が眼の前を揺れて通っていった。同じ蚊帳にふたりが寝て、そのまま済むとは考えられなかった。さっき女中たちがふとんを敷いているとき、もし、彼女と寝ることが|嫌《いや》なら、別の部屋にしてくれとたのめばよかったのだ。宮村は胸の鼓動がはっきりわかった。それほど、胸が鳴っているのに園子が平気でいられるのが不思議だった。 「じゃあ、そこにそうしていなさい。私はお先に眠ってしまいますから」  園子は|上《うわ》|目《め》|遣《づか》いに蚊帳の外にいる宮村の方を|睨《にら》んでから眼をつぶった。このひとことで彼が間違いなく、蚊帳をくぐって来ると思うとおかしかった。  宮村は蚊帳の外まで来たところで思い止ったように坐り直した。 「とにかく、男にしても女にしても自分の行為には責任を持つことだ」  加藤文太郎がいったことばを思い出した。そのときは、この言葉の意味がわからなかったのだが、今はよくわかった。加藤が責任を持つことだといったのは、この場合を指しているのだ。宮村は蚊帳の外から園子を見た。夏だから、掛けぶとんは、ほんのあるかなしかの薄ものであった。彼女は掛けぶとんを足元の方に三つ折りにして、その上に足を載せていた。桃色のリボンで、無造作にたばねた豊富な黒髪が|枕《まくら》を|掩《おお》っていた。彼女は眼をつぶっていた。眠ったように静かであった。ふと宮村は彼女はこのまま眠り死んでしまうのではないかと思った。そう思うと、彼はひどくせつないような気にもなるのである。胸の鼓動は前よりも高まった。蚊帳の中へ入って、心臓を爆発させてしまうか、そうでなければ外に出て寝るよりほかに心臓の|動《どう》|悸《き》を静める方法はなかった。宮村は加藤がよく野宿をする話を聞いていた。こういう夜こそ、野宿をやるのがいいのかも知れないと思った。野宿をしなくても、美しいものを守るために、蚊帳の外でごろ寝してもいいのである。  園子が動いた。彼女は片足の膝をくの字に立てた。彼女の足にまつわりついていた、朝顔模様の浴衣のすそが開いた。 「足がだるいわ」  彼女は低い声でいった。揉んでくれとはいわずに、足のだるさを自分自身にささやいているような口調だった。彼女は、蚊帳の外に手をつかえている忠僕の存在すら忘れたようであった。 「入ってもいいでしょうか」  宮村は蚊帳の外でそういった。なにもいわずに蚊帳の中へ入ることはひどく悪いことに思われた。  園子はおかしさを|噛《か》みしめた。蚊帳の外で、入ろうか入るまいかと、自分自身と戦っている|可愛《か わ い》い登山家がいよいよ可愛くなった。なにをぐずぐずしているの、早く入りなさい、といえばそれまでだった。相手が男性である限り、童貞であろうがなかろうが、ここまで来て蚊帳の外にひざまずいて、入っていいでしょうかという者はまずあるまいと思われた。園子は古代を考えた。|帳《とばり》の外で、許しを|乞《こ》うている平安時代の若者の姿が浮んだ。園子の心の中に、ほんのわずかばかりの理性が働いた。 (この可愛い登山家は私に本気なのかも知れない)  それが少しばかり彼女にブレーキをかけた。誘い入れてしまって、あとで面倒なことが、という心配がないではなかった。しかし、心の中のことと、彼女の身体とは別な行動を取った。  彼女は、ひとこともいわずに、くるりと向きをかえて、蚊帳の裾をまくって宮村を蚊帳の中へ誘い入れると、枕元のスタンドを消した。ふたりの存在だけを照らす明るさを残して、豆ランプがともった。部屋は|闇《やみ》に包まれた。 「足を揉みましょう」  宮村の声は震えていた。身も震えていた。彼女の足にかけた手も震えていた。宮村は足の揉み方は知らなかった。とにかく、足の|踝《くるぶし》から|脹脛《ふくらはぎ》のあたりを揉めばいいのだと思った。白いものは、さらに白く見えた。光量の不足は白いものをより以上白く見せ、黒いものをより以上黒く見せようとした。  彼女は足を宮村にまかせながら、宮村の動きをじっと見詰めていた。その可愛い登山家が、どういう経過をたどって、彼女のものになるかが待遠しくもあった。彼の荒々しい息遣いが聞えた。園子は、宮村に足をもませてやりやすくするために、身体の位置を少しずつ変えていくような自然さで、彼女の身体を接近させていった。動くたびに浴衣の裾は乱れたが、彼女はそれを直そうとはしなかった。その乱れが、彼女の足の先から腰の方へ向って|拡《ひろ》がっていくのを、彼女は、身をよじりながらかくそうとした。それが結局は、乱れの拡がりを増すことを充分承知の上であった。宮村のゆび先が、彼女の足に食い入るように痛かった。必死に欲情をおさえようとしている宮村の表情がおかしかった。  宮村は懸命にこらえていた。見てはいけないものが見えようとしていた。豆ランプの光は白いものの奥にある陰影にまではとどかなかったが、見てはならないものは、すぐそこに見えかかっていた。  宮村は激しい呼吸をついた。今はもうどうにもならなくなった自分を、押えつける|唯《ただ》ひとつの方法は眼をつぶることでしかなかった。彼は眼をつぶった。加藤が責任を持てといったことは、こういう場合のことをいったのだと思った。これ以上すすむには彼女との結婚を前提としなければならない。彼は心の中で理屈をいった。  眼をつぶっても、理屈を考えても、やはり白いものと、その奥にある神秘な陰影が見えた。彼は強風を背に受けたまま|断《だん》|崖《がい》に立たされている気持だった。宮村はそれでもなお、自分に勝とうと思っていた。自分の欲望を押えようとしていた。彼をそういう状態に追いこんだのは彼女の責任であり、そこで行われることについてはなんの責任も彼にはないのだとは考えなかった。ふたりは一つのパーティーとして山行に来たのである。|今《こ》|宵《よい》も山行の経路の延長であるとすれば、彼は今もなおそのリーダーであった。リーダーにすべての責任はあった。山男の考え方は単純だった。いかなる前提があったにしても、行動に現わした責任をリーダーが取らねばならないと思いこんでいた。眼をつぶった宮村の|唇《くちびる》が動いた。 [#ここから2字下げ] 白馬七月残りの雪の   あいだに咲き出す   あいだに咲き出す 花のかず 花のかず [#ここで字下げ終わり]  |安曇《あ ず み》|節《ぶし》の一節であった。彼は歌を歌うことによってその危険を突破しようとした。  眼をつぶって、山の歌を歌いながら足を揉んでいる宮村の、もはやどうにもならないほど危うくなっている姿勢を|眺《なが》めながら、園子自身も、こらえることの限界に近づいている自分を感じ出していた。 「もっと上を揉んで」  彼女は|下《げ》|僕《ぼく》に命ずるようにいってから、彼の手が、もっと上の、彼女の期待に触れる位置へ彼女の身体を持っていった。  その瞬間、宮村は断崖からつき落された。彼は、彼の手に触れた|小《こ》|猫《ねこ》の軟毛に発した電気に撃たれた。電気は全身を貫き、彼を自失させた。彼は、結婚して下さいと叫んだ。その行為に入る前のプロポーズだけは忘れなかった。山男としての責任は決して回避してはいないのだという自負が、電気に打たれた彼の頭のどこかに潜在していた。彼は愛しているともいった。好きだともいった。だが、それらの言葉は、すべてひっくるめて、奇妙な叫びとしか、園子には聞えなかった。  園子は、突然なんとも意味の通じないことを叫びながら、おおいかぶさって来る男を受け止めた。予期していたことだったが、彼の行為はあまりにも、|無《む》|智《ち》であり、粗暴であり、見当違いであった。彼はあせっていた。気が狂ったように眼を輝かせて、いまにも死にそうなくらいの荒い息を立てて、入って来ようとする彼を、彼女はひどく新鮮なものに感じた。彼女はしかし、彼を上手に受け止めた。上手な馬丁が狂った馬の|鼻《はな》|面《づら》を器用に取り押えるように、彼女は、|猛《たけ》り立って奔命に窮しようとしている男を、当然行きつくべきところへ導いていった。  彼は、なにか真赤に|彩《いろど》られた密室に進入したように覚えた。自然に密室の戸が開けられ、中にともしびが見えたような気がした。彼は密室の中で、|嗅《か》いだことのない芳香を持つ|濛《もう》|気《き》に取りかこまれた。あたたかく彼を押し包みながら、濛気はやがて濛気ではなく固体のようにつよく彼にまつわりついていった。もはや、その濛気を|衝《つ》いてそれ以上密室の奥まで進入しきれなくなったとき、彼の背筋をつらぬく電気を感じた。電気は瞬間的に彼のあらゆる力を奪い去った。彼は虚脱していく自分の奥の方から脱出していくものを感じた。それは引き止めることのできない勢いを持って遠くに逃れ去っていった。 「すみませんでした」  彼は彼女の枕元に手をついていった。  園子は彼のあまりにもあっけない終末が不満であった。葉にたまった露が一陣の風とともに、その下に開いている花びらにこぼれ落ちるようにはかない終り方だった。その行為は彼女の身体に火をつけただけに過ぎなかった。火が燃えかけたときに一方的に、立ちさっていく男を、彼女は許すことはできなかった。  園子は涙をためた。  宮村は、その涙こそ、彼を責める涙だと思った。 「許して下さい。責任はすべてぼくが持ちます。ぼくはあなたをほんとうに愛しているのです。責任はぼくが持ちます」  宮村は彼女の枕元に|坐《すわ》って、責任ということばを繰り返した。 「どういう形で責任を取るの」  彼女は宮村の手を取っていった。 「結婚しましょう。ぼくはあなたのためならなんだってします」 「ことばだけでは|駄《だ》|目《め》よ」  彼女は涙をためたまま冷たい口調でいった。 「いいえ、ほんとうです。あなたのためなら、なんでもします」  しかし、彼女はそのままの姿勢で泣くことを|止《や》めようとしなかった。声を上げる泣き方ではなかった。悲しくって泣くのでもなかった。感情にせまられたというよりも、|溺《おぼ》れようとして泣いているようだった。彼女は宮村を離さなかった。ことばにもそれをいった。そして、彼女の方がより積極的に宮村に求めていった。 「ことばだけでは駄目なのよ」  彼女は腕に力をこめていった。  それからの宮村は責任を口にすることはなかった。彼はただ追求した。追求しながら、実は要求されているのだということに、彼はまだ気がついていなかった。追求しながら、彼はふと、山行中に一時は倒れそうなくらいに疲労を見せた彼女が、そのことについていささかの疲労も見せないし、彼の追求に対して|嫌《けん》|悪《お》しないばかりでなく、明らかに彼女自身の反応を見せて来るのを不思議なことに感じていた。園子も彼女自身の欲求が異常であることを感じていた。彼女はそれを宮村健という可愛い登山家を相手にしていることによる|昂《こう》|奮《ふん》だろうと思いこんではいたが、疲労から来る|刺《し》|戟《げき》が彼女に異常なほどの欲望を燃え上らせているのだという真の原因についてはほとんど思い当っていなかった。  翌朝、宮村健が蚊帳の中で眼を覚ましたときには、園子はもういなかった。彼はひどくあわてた。いそいで起き上って、障子を開けて見たが、庭を見おろす|籐《とう》|椅《い》|子《す》にも彼女の姿は見られなかった。再び|蚊《か》|帳《や》のところへ|戻《もど》って見ると、彼女の着ていた|浴衣《ゆ か た》が|袖《そで》だたみにして、寝床の上に置いてあった。  園子は帰ったのだ。帰ったというよりも逃げられたという気持の方がつよかった。彼は女中を呼んで園子のことを聞いた。 「今朝ほどお帰りになりました」 「今朝ほど?」 「はい、七時ごろお|発《た》ちになりました」  彼は時計を見た。九時を過ぎていた。 「それで、この宿の勘定は……」  すると女中は、半ばあわれむような微笑をたたえて、 「全部済んでおります。|貴方《あ な た》様の朝食の分もいただいておりますから御心配なく」  返すことばがなくて、黙っていると、その女中は、彼がきのう着て来て、|濡《ぬ》れたままにしておいた、シャツや下着類をいつのまにか、きれいに|洗《せん》|濯《たく》して、アイロンまでかけて持って来て前に置いていった。 「ほんとうにあの方は、よく気がつく方ですわね。あれほど濡れていらっしたのに、今朝はもう、しゃんとして帰っていかれたわ」  園子が気がつく女だということは、要するに、女中たちにチップをはずんで、一夜のうちに、濡れたものを乾かすように手配したことを指しているらしかった。  宮村は洗面所に立っていった。帰って来ると、寝具は取り片づけられ、|食膳《しょくぜん》が運ばれていた。|食慾《しょくよく》はなかった。頭の中は園子とのことでいっぱいだった。その宮村を女中はなにもかも心得たような顔で眺めながら、 「いっこう召し上らないのね」  そういってから、ふところから宿の所番地と電話番号の印刷してある一通の封筒を出して宮村に渡した。|宛《あて》|名《な》も差出人も書いてなかった。 「あの方がお帰りになるときに……」  彼女はそれだけいってさがっていった。  宮村健はいそいで封筒を切った。 「ゆうべのことはなかったことにしてお忘れ下さい。私も忘れます」  その走り書きの手紙にも、彼女の署名も宮村健という宛名もなかった。      9  その恐るべき暑さはどうしようもなかった。シャツ一枚になって、製図板に向っていても、しぼれば水が出るほど汗に濡れた。  加藤文太郎は内火艇用の新しいディーゼルエンジンの設計に没頭していた。土曜日の午後だから帰ってもいいのだが、彼は設計室に残って仕事を続けていた。彼のほかに五人ほど居残っているものがいた。課長の影村は、このごろ急に肥満して来た|身体《か ら だ》を持て余し気味に、回転椅子をあっちこっちと|廻《まわ》しながら専門誌を読んでいた。影村が回転椅子を動かすたびに、キーキーいやな音を立てた。やり切れないむし暑さのなかに、その音は針となって、居残りの課員の頭を刺した。加藤は、影村の回転椅子が鳴ろうがきしもうがいっこう平気だった。暑さも平気だった。ただ暑さに抵抗しようと、しょっちゅう動き廻っている影村が急に静かになったときだけは気になるから眼を上げた。そんなとき影村は居眠りをはじめていた。  加藤は命令されて居残っているのではなかった。特に彼の仕事が急を要するというものでもなかった。彼はその仕事が|面《おも》|白《しろ》いから残っていたのである。|横《よこ》|須《す》|賀《か》の海軍|工廠《こうしょう》で見て来たドイツ製の上陸用舟艇のディーゼルエンジンの性能はあらゆる点で、日本のものより優秀であった。材料もよかった。工作技術もよかったが、なによりもその基本設計が|勝《すぐ》れていることには|誰《だれ》でも頭を下げた。 「ドイツ人にできて日本人にできないはずがない。要はその設計にある」  立木勲平海軍技師のいったひとことが加藤の頭の中にあった。性能は設計にかかっていた。機械は図上において誕生するものである。あとの製作工程はすべて、誕生した機械に着物を着せかけたようなものである。彼はそう考えていた。いま、彼の机上で創造がなされようとしている、と考えると暑くはなかった。加藤は|鉢《はち》|巻《まき》をしていた。汗止めであった。そうしていないと、顔の汗が図上に落ちてそれを汚した。額の汗はそれで防げたが腕の汗は防ぎようがなかった。彼は、タオルを|傍《そば》に置いて汗を|拭《ふ》きつづけた。習慣的にタオルに手がのびていった。  設計しながら、ふと山を思うことがあった。夏でも三千メートル級の山のいただきに立つと涼しいというよりも寒い。その山へ行きたいという気はあるが、年に二週間の休暇を冬山登山に集中している彼にとっては夏山は遠い存在になっていた。 「氷を食べないかね」  居残りをしている同僚のひとりが誘いに来た。 「氷? 食べたくないね」  加藤は、いつものとおりのぶっきら棒さで答えた。夏の暑いときの氷はうまかった。しかし、うまいと感ずるのは食べているときだけで、間もなく前にも増して激しい汗と暑さに苦しまねばならないことを知りながら、氷を食べる|人《ひと》|達《たち》の気持がよくわからなかった。それは、山行中に水を飲むのとよく似ていた。必要以上に水を飲むことは疲労を助長する以外のなにものでもないことをよく知っている加藤は、その登山哲学を下界に持ちおろしていた。それが下界の人たちにどう思われようが、彼の知ったことではなかった。 「しかし、暑いだろう加藤君」  氷をすすめた同僚は|直《す》ぐには加藤の前を去らずにいた。 「暑いですよ。しかし、氷を飲んだからといって涼しくなるものではないでしょう」 「それはそうですな」  同僚は苦笑を残した。 (相変らずだな加藤の|奴《やつ》)  同僚の顔には一瞬|軽《けい》|蔑《べつ》の表情が浮んだが、すぐ彼は、なにもかも暑くてやり切れない気候のせいにでもしたいように、|靴《くつ》をひきずるようにして電話機に近づいていって氷屋へ電話をかけようとした。 「ちょっと待て、いくつ注文するんだ」  影村がいった。 「五つです」 「五つ? 六人いるじゃあないか六つにしろ、おれがおごる」  影村はそういうと、加藤の方へちらっと視線を投げた。加藤は知らん顔をしていた。影村の底意地の悪い魂胆はありありと見えていた。加藤をケチな男に仕立て上げるには、この際、彼にただの氷を食べさせるのが上策であった。 (その手には乗るものか)  加藤は内心せせら笑って、そろそろ氷の来そうな|頃《ころ》|合《あ》いを見計らって席を立った。便所にでもいく格好をして、一度は廊下に出たがすぐ隣室の内燃機関設計部第二課へ入っていった。第二課でも幾人かが居残りしていた。  課長の外山三郎は笑顔をもって加藤を迎えた。 「どうだね近ごろ」  外山三郎は加藤に椅子をすすめていった。 「暑くてね」 「加藤君が暑くてね、なんていったことは聞いたことがないね。君も近ごろようやく人並みになって来たようだ」  外山はそば屋からもらったうちわで風を送りながらいった。 「いや、いっこうに人並みにはなりません……」  実は今、氷のことでといおうとしたが|止《や》めた。外山三郎の下で働いていたころにも、みんなで氷を食べたことがあった。そんなとき外山三郎は、課員が氷を食べようなどといい出す前に、彼自身で居残りの人数だけの氷を注文した。影村とは人間が違うのだ。加藤が彼がもといたところや、|衝《つい》|立《たて》の陰でひっそりとお茶を入れていた、不幸な女、田口みやがいた席のあたりに眼をやっていると、 「そうそう加藤君、きみに見せようと思って持って来た本があった」  外山三郎は机の引出しから一冊の山岳同人誌を取り出して彼の前においた。ページの中ほどに、紙片が|挟《はさ》みこんであった。  単独行についてという論評だった。 「表題は単独行についてとなっているが、内容は加藤文太郎批判だ。いやむしろ個人的な攻撃だ」  外山三郎がその論文の内容について不満を持っていることはそれだけで明らかだった。 「総体的に山男らしくない論調だ。なぜある神戸の登山家といういい廻しをしなければならないのであろうか。誰が読んでも、相手が加藤だとわかることだ。好き|嫌《きら》いはその人の自由だ。嫌いなら嫌いでいいから、堂々と相手の名前を掲げて攻撃すればいいのに、それができない。つまりこの男は単なる陰口を|叩《たた》いているに過ぎないのだ。ある神戸の登山家といっておきながら彼は神戸の一造船所の製図工であるなどと書いているところはまったく腹が立つ」  外山三郎は、その部分をゆび指していった。 「とかく登山家の中には取るに足らないようなことを鼻にかけたがる奴がいる。山はエリート族にのみ与えられたものであるという、ヨーロッパの貴族連中の一部が持っていたあの思想だ。彼らはなにかにつけて特権を価値づけようとする。門閥、学閥、資産といったようなレッテルを見せびらかすと同時に、なんとかして相手を下に見ようとするのだ。この論文を書いた男だってそうだ。製図工と書いたことによって、加藤を下層階級に|蹴《け》|落《おと》したつもりでいるに違いない。あさはかな男だ。製図工がどんな立派な職業だか知らないで書いているのだ。それに加藤は製図工ではない技師である。神港造船のぱりぱりの技師だ。この論文を書いた男が|如《い》|何《か》なる理由によるエリートを主張したにしても、加藤文太郎は、こいつ以上のエリートを主張できるのだ。なぜならば加藤は、チャンスが与えられるならば、戦艦だって設計できる腕をもった技師である」  外山三郎がいつになく痛憤するのは、暑さのせいだろうと加藤は思った。製図工と書かれようが技師と書かれようが加藤にとっては、いささかの|痛《つう》|痒《よう》も感じなかった。加藤は、そんなことよりも、いつか書かれたことのあるもっとも不名誉なことば——ラッセルドロボウが、ひょっとすれば使われていはしないかと、それだけを気にしていた。 「いいじゃあないですか外山さん。誰がなにを書こうとも、時がそれに明解な回答を与えてくれるでしょう。団体を持たない登山は登山ではないと、いくら決めつけていても、私のような単独登山を好む人は、私のあとにも次々と出るでしょうし、エリート族を中心とした登山も、やがては社会人を中心とした登山に変っていくことは、間違いないことだと思うのです」  外山は、おやっといったような顔をした。加藤がいつもと違って多弁だったからである。 「このごろ君は極端に無口になったという話だが——」 「たしかにそうです。会社ではほとんど口をきいたことはありません。その必要がないからです」 「今日は特別に暑いから、よく口が滑るというのかね」  外山三郎は笑いながら立上って、電話機の方へ歩いていった。その外山を待っていたかのように電話のベルが鳴った。加藤へ掛って来た電話だった。加藤が第二課で外山と話していることを加藤の部屋の誰かが知っていて、廻して来てくれたのである。 「加藤さん、このごろちっともいらっしてくださらないのね」  いきなりそういったのは園子だった。 「なにかごようですか」  加藤は、あいかわらずの、ぶっきらぼうさでいった。 「あの|可愛《か わ い》い登山家のことでじつは困ったことができたのよ。そのことで至急あなたにお会いしたいんだけれど、今日は駄目かしら」 「困ったことというと」 「しつっこいのよ、つまり」  加藤は、しばらくじっと立っていた。しつっこいのよといっただけで、おおよそのことはわかるような気がした。 「聞いたことのあるような声だったが」  電話が済んでもとのところへ引返して来たとき外山がいった。 「園子さんです」 「道理で聞いたことのある声だと思った」  外山三郎はそれ以上はなにもいわなかった。園子については触れたくないという顔だった。  加藤が席に戻ると赤い水になった氷が彼の机の上に置いてあった。ひどくきたならしい水に見えた。加藤は、机上の仕事を片づけると、課長の影村のところへいって、ぴょこんとひとつ頭をさげた。帰りますという|挨《あい》|拶《さつ》だった。 「なにも隣へ逃げなくてもいいだろう。おれはきみに|御《ご》|馳《ち》|走《そう》さまといってもらいたくて、氷をおごったのではないぜ」  影村が皮肉をいった。加藤はそのいかりの顔に正対して黙っていた。相手がなにか激しい感情を顔に表わすと黙りこんでしまうのが加藤の癖であった。そうなると、彼の口は|緘《ぬ》われたように開かなかった。口を開かないかわりに彼は、眼で物をいった。その眼が相手を威圧した。 「もういい、帰りたまえ」  影村がそういうのに合わせるように加藤は廻れ右をした。  夕刻になっても、ちっとも涼しくならなかった。|夕《ゆう》|凪《なぎ》の時刻に入ると、海陸風の交換が止んで、風は死んだように動かなくなり、かえってむし暑かった。  園子が指名したレストランは海が見える高台にあったが、海が見えるというだけで涼味は感じなかった。 「宮村さんてそれはもうたいへんなのよ。会社が終るとすぐ店へ来て、店のはねるまで私を待っていて、どうしても私の家まで送っていくといって聞かないのよ。|他《ほか》にお客様もいるでしょう。それにね、加藤さん、私あの店やめて、満州へ行こうかと思っているのよ、その前にへんにごたごたを起したくないのよ。私、困ってしまったわ。加藤さんになんとかいっていただきたいのよ」  園子は要求だけを先にいって、宮村がなぜそれほど、しつっこく彼女を追うようになったかについては黙っていた。 「そのうち遊びに来たら、いってやろう」  加藤は|憮《ぶ》|然《ぜん》としていった。 「そのうちでは困るんです」  だが加藤は園子の眼の中にある秘めごとを見詰めたまま黙っていた。加藤が横須賀へ出張して帰って来てからの宮村健の態度は急変した。宮村はあれ以来ぴったり加藤の下宿へ来なくなった。加藤は宮村と園子の間になにかあったことを察知していた。 「ねえ、加藤さん。なんとか方法はないの、迷惑なのよ。ああしつっこくまつわりつかれては」 「ぼくには責任がない」 「わたしにその責任のすべてはあるというの」  いいわと彼女は口の中でつぶやいた。園子も加藤の沈黙が、いつもの加藤の沈黙ではないことを知っていた。いまとなって、迷惑な存在になった可愛い登山家を遠ざけるためには、ある程度の真相をいうのは止むを得ないだろうと思った。園子は天井に眼をやった。紙で作ったへちまの間に鈴が|吊《つ》り下げてあった。 「実は東六甲山に登った帰りに宮村さんと宝塚で泊ったのよ。なにかそうならざるを得ないような成行きになってしまったのですけれど……わかっていただけるかしら」  園子はちょっと加藤の視線をよけるように下を見ていたが、意気込んだように顔を上げて、 「でも、そのときだけよ。あとは全然、宮村さんとは没交渉なのよ。だって、私にはちゃんと男がいるでしょう。その男の手前、へんなことはできないわ。だからといって、宮村さんに、私の口からそんなことはいえないし」 「ぼくにどうしろっていうんです」  加藤は開き直ったいい方をした。 「ほんとうは宮村さんに会う前に、私の男に会っていただきたいのよ。会って、宮村さんがどういう人だか話していただきたいの。しかしね、加藤さん、私と宮村さんと関係があったということだけは内緒にして置いていただきたいわ。彼には、加藤さんを含めて三人で山へ行って、途中で雷雨に襲われて、つい帰れなくなって、宝塚で泊ったということになっているのですから」  園子はそのことについて何度も念を押した。 「あなたの男っていうのは」 「あそこで待っています」  彼女がゆび指す方を見ると、その店で、海に一番近い席に場所を取って、こっちに背を向けて|煙草《た ば こ》を吸っている男がいた。後姿がどこかで見たような男だった。 「やあ加藤君、しばらくだったな」  煙草を右手の指の間に挟んだままふりかえった男は、やや白々しい態度でそういった。 「金川……きみだったのか、園子さんの男というのは」 「そうだ。まさに男だ、情夫と書く方の男だよおれは」  金川義助は|不《ふ》|貞《て》|腐《くさ》れたいい方をして、ぽいっと煙草を捨てると、ウエイトレスに向って、ビールとつまみものを注文した。  |情夫《お と こ》と彼自身が|自嘲《じちょう》的な言葉を使ったとおり、金川はどことなくにやけていた。麻のズボンに赤い|靴《くつ》はいいとして、|縞《しま》の|上《うわ》|衣《ぎ》に|蝶《ちょう》ネクタイは|気《き》|障《ざ》に見えた。  加藤の顔は怒りでふくれ上っていきそうだった。幼児をかかえて、金川しまがいかに苦労しているかを金川義助にいってやりたかった。彼の無責任さを糾弾してやりたかった。一発ぐらいぶんなぐってもいい相手だった。 「人間というものは、どこでどうぐれるかわからないものなんだ。今からおれをまともな人間に|戻《もど》そうとしたところで、どうにもなりはしないぜ」  金川義助はいっぱしの与太者のいい方をした。かつて、マルクスに傾倒し、官憲に抵抗しながら、主義者という孤塁を守っていた男だとはどうしても思えなかった。加藤は徹底的に黙っていた。もともと園子の方で立てたスケジュールであった。金川義助が余計なことをいうなといった以上、口をきくまいと思った。 「ビールを飲めよ加藤、君だって、いい|年《と》|齢《し》だ。ビールぐらい飲めるようになっただろう」 「飲みたくないね」 「そうか、それなら見ているがいい」  金川義助はジョッキを取り上げると、|泡《あわ》ばかりじゃねえか、といいながら口に当てた。 「宮村健っていう小僧を締め上げてやろうと思ったが、締め上げたところで一銭にもなる野郎じゃあねえ。それよりも、痛え目に合わせて、二度とベルボーの近くをうろつかねえようにしてやろうと思うがどうだ」 「勝手にするがいい」  加藤は取り合わなかった。 「おい加藤、あの小僧はてめえの|乾《こ》|分《ぶん》じゃあねえか、てめえは乾分を見捨てるつもりか」 「乾分でも親分でもない。ただの友人だ」 「なるほど、山男なんていうものは、からきし|意《い》|気《く》|地《じ》のねえもんだな、いざとなったらただの友人といって逃げる——」  金川義助はせせら笑った。加藤はそれ以上そこにいるのが|嫌《いや》になった。金川義助の|変《へん》|貌《ぼう》ぶりに驚くよりも、金川をそのように変えていった社会の陰影を|眼《ま》のあたりに見せられたような気持だった。加藤は立上った。 「帰るってえのか、帰るなら帰れ。だがなてめえが、そのまま帰りゃあ、あの小僧の指の二本や三本は消えて|失《な》くなるこたあ承知だろうな」  その|脅迫《おどかし》が加藤の足を止めた。 「まあ|坐《すわ》りなってことよ。え、加藤、昔の同期生じゃねえか。なにも、そんな|面《つら》をしないでもいいだろう。|俺《おれ》だって、好きこのんで、あの小僧の指をつめようなんていってるのではない」 「いくらか金でも出せというのか」  加藤は立ったままでいった。 「おい加藤、人を|嘗《な》めたことをいうもんじゃあねえ。これでも俺は、この辺りじゃあ少しは顔が知れている男だ。昔の同期生から金をせびろうなんて、さもしい根性は持っていやあしねえ。そこんところをよくわきまえて話を聞くんだな」  加藤はまた席に坐った。ごつごつ|尻《しり》のいたい|椅《い》|子《す》だった。 「風が出たようだな、加藤」  金川義助が、天井を見上げた。|風《ふう》|鈴《りん》が、海から吹いて来る微風に鳴っていた。加藤は風鈴を見上げている金川義助の|喉《のど》のあたりを|眺《なが》めながら、この男は決して幸福ではないなと思った。 「どうすればいいのだね、金川」 「うん、まあ、そういうふうに話を持ちかけてくりゃあ、おれだって、別にいきり立って、ものをいうこともないのさ。実はな加藤、園子がいったと思うが、あの小僧につきまとわれると商売に影響するんだ。はっきりいって、今後いっさい近よってもらいたくない。年上の女に可愛がられたその味が忘れられねえで寄って来るあの小僧の気持がわからねえでもねえが、これ以上つきまとって来るなら、ほんとうに痛い目に会わしてやることになるだろう。ほんとうは、あの小僧が悪いのじゃあねえ、あの小僧を宝塚へ引きずり込んだ園子の|奴《やつ》が悪いのだが、園子の方には、いまのところわざと知らんふりをしてやっているのさ。なあ、加藤、あの朝、宝塚から帰って来て、園子は、まずなんといったと思う。加藤さんに引張り廻されてひどい目に会わされたあげく、雷雨に|濡《ぬ》れて、三人で宝塚へ泊ったとこういうんだ。ばかな奴だよ、あの女は。あいつが帰って来るちょっと前におれが、神港造船所に電話をかけて、加藤が|横《よこ》|須《す》|賀《か》に出張していることを確かめたのも知らないで、そんな|嘘《うそ》をいうんだ」  金川はジョッキのビールを飲み干して、先をつづけた。 「こいつ嘘をいっているなと思った途端、あの女が不貞を働いたことを直感したのだ。それでおれは、すぐその不貞を検査してやったのだ」 「検査?」 「独身者にはわからないことさ、俺みたように女についての達人になると、その女の身体にちょっと触れて見りゃ、その女が前夜に不貞を働いたかどうかがわかるのだ。おれは園子とあの小僧との関係を見破ったのだが、それは別にとがめずに置いたのさ。おれはな加藤、園子の|他《ほか》にも女があるのだ。園子のことを知らんことにしてやれば、園子だって、おれの|浮《うわ》|気《き》に口出しはできねえってことさ」  金川義助は、不健康なほど青白い顔をゆがめて笑うと、 「園子の奴が、ほんとに浮気をしたい相手は加藤なんだ。そのこともおれはちゃんと知っている。ところであの小僧のことだが、君からはっきりいってやったらどうかね。この俺っていう男がいることを……それであきらめればよし、あきらめないとなれば、こっちにも考えがある」 「わかった。宮村君にあきらめるようにいってやろう……だが彼はあきらめるだろうかな」 「だからさ、だめなら、おれが乗り出すといっているじゃあねえか。じゃあいいね。一応期限は一週間以内っていうことにして置いてやろう。ところで加藤、きさまなにか食べないか、黙って、ひとのビールを飲むのを見ていたってつまらない」 「俺は下宿に帰って食べるからいい」  金川義助は運ばれて来たジョッキを口に持っていく手を止めた。加藤のひとことを通じて、池田上町の、かつて彼が下宿していたところを思い出した。別れてもう四年にもなる妻子のことが頭に浮んだ。 「そうか下宿に帰って食べるか。だが、加藤、おれのことを、しまに話してくれるな。話しても、いまさら、どうにもならねえことだからな」 「話すなというなら話さないが、一度、坊やに会ってやるがいい。すっかり大きくなってな、ちょこちょことび歩いている。そうだ、きのう|梯《はし》|子《ご》|段《だん》からころげ落ちて、大きなこぶをこしらえた」  金川義助の眼が輝いた。なにかいおうとしたが、すぐその輝きを、濁ったものが消すと、近くにいるウエイトレスが驚いて振りかえるほどの大声で、 「うるせえなあ。そういう話は聞きたくねえ」  金川義助は、危うく失いかけた自分を、叫び声を上げて取り戻すと、やけにがぶがぶビールを飲んだ。  加藤はその足で宮村健の家を訪ねるつもりだった。 「たしか彼の家は上|祇《ぎ》|園《おん》町の乾物屋だといっていたが」  加藤はひとりごとをいった。加藤の頭の中の神戸市の地図ではそこから上祇園町までは四キロ近くあったが、加藤に関する限り歩くことは問題ではなかった。上祇園町に入って、乾物店を見かけては宮村乾物店のことを聞いた。三軒目の店で、遠州屋という屋号と場所とを教えてくれた。  遠州屋は、その辺のどこにでも見掛けることのできる代表的な町の商店だった。店員はおらず、宮村健とよく似た母親らしい人が店をまもっていた。  宮村君、いますかときくと、ちょっとびっくりしたような顔で加藤の顔を見上げたその女は、 「|健《たけし》ですか、健は出掛けておりませんが——」  電灯はそう明るくはなかった。前掛け姿の女は、そういいながら加藤の方へ近づいて来ると、 「あなたは、もしや加藤さんでは……」  そのときはもう、加藤だと確かめた顔だった。加藤が、そうだというと、女は急に|相《そう》|好《ごう》を崩して、 「まあまあ、それは、きっと途中で行き違いになったのだと思います。健はずっと前にお宅様へ行くといって……」  そこまでいうと、ちょっと待ってといって、奥へ走りこんでいった。宮村健の父親らしい男が、物置かなにかで仕事でもしていたらしく、身体中に|埃《ほこり》をかぶって出て来ると、|鉢《はち》|巻《まき》を取って、額の汗を|拭《ふ》きながら、健がいつもお世話にばかりなっておりましてといって深く頭を下げた。 「さあ、加藤さん、お上り下さい。そのうち健も帰って来るでしょうから。あの子は、ひとりっ子ですから、なにかにつけてわがままで親のいうことは聞かない子なんですけれど、加藤さんのことだけは、よく聞くとみえまして、このごろは、加藤さん加藤さんといって毎晩のように出掛けていって、ご迷惑ばかりお掛けして、ほんとうにすみませんです」  宮村健の母がいった。  宮村健の健をたけしと呼ぶことや、彼がひとり息子だったことや、彼の両親が|如《い》|何《か》にも人が良さそうな夫婦だということなど加藤にとって、初めてのことばかりであった。宮村に聞けばわかることだったが、無口な加藤は、宮村の一身上のことについては、ひとつも聞いてはいなかったのだ。加藤は、宮村の両親の話を聞きながら、宮村が加藤のところへ行くと出かけていった先のことを考えていた。ベルボーへ行っていることは明らかだった。恋が、宮村を盲目にしているのだと思った。 「帰ります」  と加藤はいった。 「もう少し待ってみたらいかがでしょう」 「いえ、宮村君は、多分ぼくの下宿の二階の部屋で、山の本を読みながら|僕《ぼく》を待っているに違いありません。だから帰ります」 「そうですか、それでは」  と宮村の母親がいって、彼女の|亭《てい》|主《しゅ》になにかいってもらいたげに顔を向けると、宮村健の父親は節くれ立った手をもみ合せながら、ひとつお願いがあるのです、加藤さんといった。 「とにかく、あれがひとりっきりですので、あれが山へ出かけると、うちのやつは一晩中寝ないでいるんです。どうしてまあ、健はあんなに山が好きになったのでしょうか。それにあんまり、山ばかり行っていると会社の方だっておろそかになりはしないかと心配したり、いやどうも親というものは、いらざる気苦労ばかりしておりますんで。それに、また、加藤さんと、今年の冬、北アルプスへ登るので、その打合せ準備のためとか申して、このごろは毎晩……好きなことはやらせたいのですが、相手が山ですし、あの子はひとりむすこですのでそこのところをなんとか……」  あとはその繰り返しになった。  加藤は宮村健の両親に責められているようであった。宮村を山へやるのは、加藤が悪いのだといわれているような気がした。宮村健の両親だから、その程度で済むけれど、他の家庭だったら、頭から罪人呼ばわりをされないとも限らないと考えた。加藤は、すべて迷惑に感じた。宮村健は加藤の下宿へ出入りしているし、加藤の山行を|真《ま》|似《ね》て単独登山をやっていることも事実であるが、それは宮村健が勝手にやっていることで、加藤の知ったことではなかった。が宮村健の父親にいわれてみると、加藤はやはり責任を感じないでもなかった。加藤は、|三宮《さんのみや》へ向って|宵《よい》の町を歩き出した。  テイールーム・ベルボーのドアーを押して入ると、レジの女の子と並んで、珍しく、和服姿の園子が立っていた。  加藤は園子を無視して、奥へ眼をやった。宮村健はいなかった。はてな、そんなはずはないがと、もう一度眼を出発点へもどすと、園子に一番近いテーブル、入ってすぐ左のテーブルに宮村健が、思案顔に|頬《ほお》|杖《づえ》をついて坐っていた。  加藤は宮村健のテーブルの前に立った。宮村は加藤の眼を見ると、悪いことでもした子供のように、いそいで眼を伏せた。 「宮村君、外へ出よう、歩きながら話をしよう」  加藤がいった。宮村は返事をしなかった。動こうともしなかった。加藤がなにしに、そこへ来て、なにをいおうとしているか、すべてわかっているようだった。女の子が、水をついだコップを持って来て、加藤の前へ置くと、加藤と宮村を|見《み》|較《くら》べて、引きさがっていった。 「宮村君、重大な話があるのだ。さあ、ここを出よう」  宮村健は、その時やっと顔を上げた。悲しげな顔をしていた。さけ得られないものをなんとかおしのけようとしている|苦《く》|悶《もん》の顔だった。 「すみません」  宮村健は立上った。      10  昭和八年十二月三十一日、加藤文太郎は|氷《ひょう》ノ|山《せん》|越《ごえ》(一二五二メートル)より四百メートルほど東側に下った|杉林《すぎばやし》の中の地蔵堂で眠っていた。寒くはなかった。神戸の下宿の庭でビバークしているよりもはるかに楽な気持だった。ルックザックに腰をかけ、頭からすっぽりと|合《かっ》|羽《ぱ》をかぶって背を丸くして眠っている加藤は、ときどきびっくりしたように身体を動かす。  雪が降りつづいていたが風がなく、時折枝に積った雪が滑り落ちる音が聞えるだけで、そのほかには物音はなかった。そこには除夜の鐘の|音《ね》も、二年参りの|喧《けん》|騒《そう》もなかった。  加藤は四時ごろ一度眼を覚まして、懐中電灯をつけて時刻を確かめ、まだ雪が降りつづいていることを確かめてからまた眠った。眼を覚ましたときはもう明るくなっていた。  加藤はアルコールランプに火をつけコッフェルで湯を沸かして、その中へ特別注文して作らせた|餅《もち》とひとつかみの甘納豆をいれた。普通の餅の三分の一ほどの大きさの薄い餅だった。焼く必要はなく、湯に入れるとすぐ食べられた。おしるこによく似ていたがおしるこほど甘くはなく、|勿《もち》|論《ろん》雑煮でもなかった。加藤が考え出した彼独特のお正月料理であった。彼は餅を食べながら時々ポケットから|乾《ほ》し小魚を出してぼりぼり|噛《か》んだ。身体に熱い物が入ると力を感じた。  夜が明けると風が出た。吹雪の中を、数人のパーティーが地蔵堂の前を通っていった。加藤はいそいで出発の用意をして登山者たちのスキーの跡を追った。加藤の履いているスキーにつけたシールが具合が悪く、シールとスキーの間に雪が入って団子になったり、よじれたりした。それを直しながら氷ノ山越まで来ると、先行者のスキーの跡は、そこから須賀山(一五一〇メートル、通称氷ノ山)に向って延びていた。  加藤は|躊躇《ちゅうちょ》することなく、そのシュプールの跡を追ったが、数歩行ったところで、かつて、ラッセルドロボウといわれたことを思い出して|嫌《いや》な気がした。|止《や》めようかと思ったが、ここまで来て、この付近の山の代表である氷ノ山に登らないのも|癪《しゃく》だから、|彼《かれ》|等《ら》のあとを追った。氷ノ山の頂上は吹雪でなにも見えなかった。時計を見ると十一時であった。引きかえして、もとの氷ノ山越に出てから、加藤は、|誰《だれ》も踏んでない新雪の中を|陣《じん》|鉢《ぱち》山へ向って歩き出した。ブナ林の尾根道であった。吹雪もさほどのことはなかった。 「予定どおりやろう」  加藤は吹雪に向って、そう宣言して、すぐスキーのシールの予備を持って来なかったことを悔いた。そのことがちょっと心配だったが予定を変更することはあるまいと思った。彼は陣鉢山へいく途中から道を尾根伝いに|真《まっ》|直《す》ぐに北に取り、三ツヶ谷山(一二三九メートル)を経由して、彼の故郷の浜坂を流れる岸田川の上流|美《み》|方《かた》|郡《ぐん》菅原村にたどりつく予定であった。地蔵堂から十四キロメートルの距離であった。彼はここを夏の間に二度ほど通ったことがあった。  地蔵堂を出てから途中で一泊しなければならないと思っていた。雪の中でのビバークには自信があった。 (今日は元日だから途中ビバークをしても二日の午後には菅原村へつくことができるだろう。浜坂へつくのはその日の夜になる)  加藤は山をおりて浜坂へ行ったその足で花子を訪ねてやろうと思っていた。花子に登山姿を見せてやりたいという気持ではなく、そこに花子がいるから、より困難な、冬の山を越えて来たのだという気持を伝えてやりたかった。花子はなんの説明もなくわかってくれるだろうと思った。花子には正月に浜坂へ帰るとは通知してなかった。おどかしてやろうという気持はなかった。加藤は照れ屋であった。筆不精の方ではなかったが、相手が花子だと妙に筆を持つ手がこわばった。彼は字が上手の方ではなかった。彼は字を書きながら、ふと、小学生のころから字は少しもうまくなっていないと思うことがあった。加藤の字が下手なのに比較して花子は達筆だった。文章も上手だった。花子の手紙を読むと、加藤は圧倒され、一種のコンプレックスを感じた。それでも加藤は今度の山行だけは花子に知らせて置こうと思って葉書を書いたが、花子が長い|睫《まつ》|毛《げ》の黒い眼で、彼の下手な字で書いた葉書をじっと見詰めている姿を想像すると、それをポストに投げこむ気がしなくなった。  吹雪は時々止んで視界を彼のために|拡《ひろ》げてくれた。雪の尾根筋はもともとそこに道があるわけではなかった。しかも冬だから踏みあとがあるわけがなかった。新雪は加藤のスキーを飲みこんだ。全体的に湿雪であったから、やたらに雪がスキーにくっついて歩行の邪魔になった。シールはやはりうまくなかった。信用できないと思った。しかし加藤は、シールがなくとも歩いていける自信はあった。登りはところどころあったけれど、総体的には、ほぼ同高度の尾根筋であった。心配されるのは三ツヶ谷山への登りだったが、シールがだめになったら、横向きになってスキーで階段をつけて登る手があった。  霧がはれて陣鉢山がよく見えたので、彼は地図を出して、彼の前進すべき尾根筋を、ブナ林の中に求めた。今までは西に向って進んで来たのだが、それからは真北へ向っての前進だった。西から北へほぼ直角に向きを変える分岐点あたりがちょっとした雪の広場になっていた。付近の地形と地図から判断して、そこが正当な分岐点であることを確認してから、加藤はブナの大木のかげに風を避けて、夕食の支度にかかった。コッフェルの中で雪が水になり湯になり、餅と甘納豆をやわらかく溶かしていくのを見ながら、加藤は、ひとりで山の中にいることの楽しさをしみじみと感じていた。  夕食を取ってからも、彼はまだ歩きつづけていた。ビバークすべき適当な場所がなかったからである。しめり気の多い雪だから、下手なビバークをすると、|濡《ぬ》れてしまって、休養どころか、かえってあとの行動に|差《さし》|支《つか》えが生ずることが考えられた。加藤は夜歩きには|馴《な》れていた。体力に充分余裕があるうちならば、どこに寝ても凍死するようなことがあろうはずがない。だが、このしめり雪には自信がなかった。彼が体験した冬山ビバークはすべて北アルプスの乾いた雪の中であった。しめり気をとおして身体に感じて来る寒さからおし計って、彼は徹夜縦走の方がむしろ安全と考えたのである。 (なあに一晩歩けば、翌朝には三ツヶ谷山の頂に達するだろう。そこから菅原村まではすぐだ)  そうなると花子のいる浜坂へ着くのは、予定より早くなる。決心したら疑わなかった。  加藤は首にかけた懐中電灯をたよりに、ゆっくりと歩いていった。だが彼の考えはすこぶる甘かった。夏の山と冬の山では様相が全然違っていた。しかも、尾根通しに木があることと、尾根は、|痩《や》せ尾根というほどではないから、なにも考えずに、ただ歩くといったふうな山歩きではなく、地図と磁石とをたよりに、一歩一歩を慎重に進まねばならない。ひどく神経の疲れる夜歩きであった。夜半になって吹雪が強くなって来ると、地図も磁石も雪におおわれてしまって、進むことも引くこともできずに立往生してしまうことがあった。だが彼は歩いた。歩いているというより眠っていなかったというほうが彼の場合には当っていた。眠れるような状態でないときは起きていたほうがいいというのが彼の考え方だった。  夜が明けた。明け方にゆるい登りにかかった。そこが五万分の一の地図に示されている一〇五七メートルのピークであるらしかったが、そこだと確かめるためには、なおしばらくの時間がかかった。彼はそこで、例のとおりに湯を沸かして、餅と甘納豆を食べた。二食分ほどの食糧がまだあった。どっちみち今日中に菅原村へ下山できるのだからそれだけあれば充分だと思った。道を迷ってはいないという自信があった。地図と磁石があれば暗夜の山行も可能だというのは彼の体験が生んだ自信だった。雪が小止みになって、木の間がくれに陣鉢山とその下の諸鹿村が見えた。その方向を地図と合わせて見ると、彼のいる位置が一〇五七高地であることに間違いがなかった。一晩中かかっても二キロメートルしか前進できなかったことはいささか|腑《ふ》|甲《が》|斐《い》ないことであったが、道を迷っていないことは加藤をさらに自信づけていった。  そこはもう日本海気候の支配下にあった。晴れたと思うつかの間にまた吹雪となった。濃い霧が彼を包んだ。  そこから三ツヶ谷山の登り口まではほぼ|平《へい》|坦《たん》だった。シールがめくれかえって役に立たなかった。彼はシールを取り除いた。そのころから彼は疲労を感じ出した。一晩中眠らなかったせいだった。三ツヶ谷山の登り口にかかったところで、昼食を|摂《と》った。腹に暖かいものが入ると元気になった。一気に三ツヶ谷山へ登ろうと思ったが、シールのないスキーは思うように進まなかった。そうなると、両手に持っているストックに力が加わることになる。右手のストックが折れた。  いやな予感がした。彼は折れたストックを捨てて、横向きになって高度を|稼《かせ》ぎ取っていった。宮村健が八ヶ岳登山の際にストックを折ってひどい目にあったという話を思い出した。宮村健は、まるで加藤の記録を追っているかのごとくに加藤のあとをつぎつぎと歩いていた。宮村健が、スキーで八ヶ岳に向ったのも、加藤が昭和三年から四年の正月にかけて、はじめて冬山を単独でやったときの記録をそのまま踏襲したに過ぎなかった。宮村健は加藤に取って薄気味の悪い追従者であるとともに、愛すべき友人であった。宮村健のことを思い出すと加藤の頭の中は宮村のことでいっぱいになった。  半年前のあの夜、喫茶店ベルボーを出た宮村と加藤は山の手へ向って歩いていった。ふたりとも無言だった。どっちが先でもあとでもなく、並んだり前後したりしながらふたりの足は、山へ山へと近づいていった。  |諏《す》|訪《わ》神社の鳥居を見て、ふたりははじめてかなり遠いところまで歩いて来たことを知った。諏訪神社は真夜中のように静まりかえっていた。そこまで来たが、ふたりはまだ歩くのをやめようとはしなかった。神社の裏から公園につづく道があった。そこにベンチがあったがそこにも|坐《すわ》らずに、ふたりは歩きつづけていた。  突然、宮村が走り出した。道はあったが、暗くてよく見えなかった。それでも彼は走った。加藤が追っても追いつけないほどの速さだった。加藤も走った。宮村、ばかなことをやめろといいたかったがいわなかった。宮村が一晩中走るなら、加藤もまた一晩走ってもいいと思った。二晩だって三晩だって走れるぞと思った。しかし宮村はそう長くは走らなかった。なにかにつまずいて|草《くさ》|叢《むら》の中にばったり倒れると、それ以上は走ろうとしなかった。  ふたりは夜露のおりた草の上に腰をおろして神戸の夜景を見ていた。宮村が泣き出した。はじめはすすり泣きだったが、やがて|堰《せき》を切ったような激しい泣き方になり、しばらく静かになるとまた思い出したように|慟《どう》|哭《こく》した。|膝《ひざ》の上に両腕を組んで、その上に顔を埋めて泣く宮村の姿を、園子に見せてやりたかった。加藤は、このような純情な青年を|疵《きず》つけた園子を憎んだ。  園子を、短いひとことでやっつけてやりたかった。あんな、すれっからしの女なんかあきらめろといったふうな表現で園子をこきおろしてやりたかった。だがうまいことばはでなかった。 「園子さんには男がいるんだ」  加藤は宮村の泣き声がややおさまったところを見計らっていった。 「知っています。なにもかも知っています。だがぼくは園子さんをあきらめられない」  宮村はそういってまた泣いた。 「あきらめられなくとも、あきらめるのが山男というものだ」  加藤はそういって、すぐ、その言葉がなんと平凡で空虚なものだろうと思った。 「加藤さん、あなただってヒマラヤに|惚《ほ》れているでしょう。しかし、ヒマラヤはいくら加藤さんだって、どうこうできるという山ではないでしょう。それでも加藤さんはヒマラヤをあきらめてはいない。なぜかって、あなたは山男だからなんです」  宮村が、こんなところでヒマラヤを出して逆襲して来るとは思いもよらぬことだった。  ヒマラヤは加藤の胸の中にだけあった。ヒマラヤ貯金は既に千円を越していた。土地付の立派な家を一軒買える金だった。多くの人はその彼を|守《しゅ》|銭《せん》|奴《ど》と見ていた。なんと見られ、なんといわれようとも彼はヒマラヤ貯金をつづけていた。それは信念を越して信仰に近いものであった。いつか必ず、ヒマラヤに足をつけるぞという意志が、せっせと金をためていたのである。その大きな希望は親にも兄弟にも、外山三郎にさえもいってなかった。花子と結婚しても、このことだけは黙っていようと思っていた。加藤にとって神聖なその秘密を、宮村健がいかにして|覗《のぞ》いたのか、加藤にはわからなかった。  宮村健は、加藤の下宿に自由に出入りできる|唯《ただ》一人の友人であった。加藤が不在のときでも、勝手に本を読むことを許されていた。加藤の下宿の|本《ほん》|棚《だな》にはヒマラヤに関する本で、日本で手に入ることのできる本はことごとく集めてあったし、洋書も二冊ほどあった。だが、それだけで、宮村が、加藤さんはヒマラヤに惚れているといえるはずがなかった。 (まさか机の引出しをあけて日記帳を読んだのではあるまい。たとえ読んだとしても、ヒマラヤのことなど一言半句も書いてはない。宮村は直観したのだ) 「そうだ、君こそあんな女はあきらめて、ヒマラヤに惚れるがいい」 「ぼくはだめなんです。加藤さんのように、ほんとうに山に惚れることはいまになってはもうできないかも知れません」 「それなら山をやめろ」 「いいえ、山はやめません。これからのぼくは、ほんとうに山が必要になってくるのです」  ふたりはまたおしだまった。  宮村健が立上った。それからは、急にさとりでも開いたような足取りで坂をおりると、彼の家の方へ向ってさっさと歩いていった。  二、三日してから、園子から加藤のところへ電話があった。 「かわいい登山家ね、相変らず店へ来るわ。でも、私の後はつけ|廻《まわ》さないし、静かにコーヒーをいっぱい飲んで黙って帰っていくわ、薄気味悪いような変り方よ。どうも加藤さんいろいろとありがとうございました。それからね加藤さん、私たちの満州行きの話きまりそうよ」  加藤はそれにはろくろく返事をせずに電話を切った。 「かわいい登山家はいまごろ……」  加藤は現実に|戻《もど》っていった。宮村は北アルプスへ出かけている。それも単独行である。 「ばかな|奴《やつ》だ。下手をするとやられるぞ」  加藤はそうつぶやいて、はっと|吾《われ》にかえった。階段登りはその終点に達していた。三ツヶ谷山の頂上についたのである。深い霧だった。風はかなりあった。問題はそこからの下り道であった。地図を見ると、頂上から菅原村へ下るコルまでは約三キロメートルしかないが、そこへ行くまでの尾根筋が広々としていて迷いやすい。霧の中をすすむことはむずかしかった。  彼は注意深く、三ツヶ谷山の頂上の地形を|偵《てい》|察《さつ》することにした。霧が深くても、シュプールの跡をたどれば、もとのところへ帰ることができる。それに磁石もあるし迷うことはないと思った。  ふわっと|身体《か ら だ》が宙に浮いたような気がした。|雪《せっ》|庇《ぴ》を踏んだなと思ったとき、彼は雪煙りとともに流されていた。なだれにはならずに、彼は深雪の中にすっぽり飲みこまれたままで止った。身体のあちこちが痛かったが、どこが痛むのかしばらくははっきりしなかった。スキーは履いたままだし、片方のストックは握っていた。  雪の中からやっと|這《は》い出して、頂上に戻ろうと思った。霧をとおして見える地形から判断して、流された距離は、十メートルか、せいぜい十五メートルぐらいの感じだった。彼は立上った。一歩二歩三歩と階段をつけたところで、全身に疲労が襲って来た。 「こういうときには食べなければいけない」  と思った。彼は湯を沸かして、持っているだけの甘納豆と|餅《もち》をコッフェルの中に入れた。それで食糧はなくなることは知っていたが、節約しなければならないという気はなかった。彼の故郷はすぐそこだった。ここまで来たらもう大丈夫という気があった。空腹はいやされたが、そのころになって眠気が彼を襲った。  眠ってはいられない時間だった。霧が晴れたら、菅原村目がけておりなければならない。そう思っていても眠くてしようがなかった。霧はいっこうに晴れそうもなかった。  ままよ霧が晴れるまでと|眼《め》をつぶって加藤は膝をかかえた。寒さで眼が覚めた。一時間とは眠ってはいなかったが、身体中が冷えた。湿雪が彼の体温を奪ったからであった。手袋も、ヤッケも、ズボンもなにもかもぐしょぐしょに濡れていた。山は夜を迎えようとしていた。 (このままで夜を迎えたら危険である)  彼はそのときになって、彼が思いもかけなかったような危機にさらされていることを知った。 (故郷の山を甘く見すぎていたのだ。湿雪にたいする研究が足りなかったのだ)  そう反省してもどうにもならなかった。真冬の北アルプスの吹雪の中を十日もかけて縦走した加藤の乾雪に対する経験はここでは役に立たなかった。  彼はスキーで|雪《せつ》|洞《どう》を掘りにかかった。やっと彼の身をかくすていどのものはできたが、その中で一夜を明かすことはできそうになかった。うとうとすると寒さで眼がさめた。全身をしめつける寒さだった。身体中をおおっている濡れたものが、氷に化していく寒さだった。|素《す》|肌《はだ》で氷の着物を着たと同じ状態になろうとする寒さだった。  加藤は寒さに|馴《な》れていた。あらゆる寒さという寒さを経験して来たが、それらの寒さの中には必ず救いがあった。風による寒さなら、ものかげにかくれると暖かくなった。ひしひしとしめつけてくる寒さでも、雪洞の中に入って、ルックザックに腰かけて、|合《かっ》|羽《ぱ》をかぶってじっとしているとがまんできた。我慢できる寒さならば、眠っても凍傷にかかる心配はなかった。我慢できないような寒さに襲われたときは眠ってはならないのだということも、彼が体得したビバークの法則だった。  彼は眠ったらそのまま死ぬかも知れないと思ったが、心とは裏腹にまぶたは自然に重くなっていった。そしてより以上の寒さに、はっとして眼を覚ますのである。  腰から下の感覚が|麻《ま》|痺《ひ》していくような感じだった。それ以上、そこにそうしていることはできなかった。彼ははっきりと生と死の境目に来ていることを知った。生きるためには眠ってはならないと思った。彼は穴を出て、歩き出した。そっちが菅原村の方向かどうか確たる自信はなかった。菅原村の方へ歩くというより、寒さに打ち勝つために歩くことの方が彼にとって今は大事なことだった。歩いているうちにふと霧が晴れて、菅原村の|灯《ひ》が見えるかも知れないと思った。 「そうだ灯が見えるはずだ」  そう思ったとき、彼はおびただしい灯の海を見た。 「ああ、あっちが菅原村だ」  しかし彼はすぐその灯が異常に多すぎることに気がついた。 「なんだ神戸の灯じゃあないか」  そう思った途端灯は消えた。霧の暗夜であった。幻視を見たのだ。死の前兆をおれは確かにこの眼で見たのだと思って、加藤はぞっとした。しかし、その幻視はまたなんとはっきりしていたことであろうか。 「おれは幻視を見ていたのだ」  彼は自分にいい聞かせた。 「いやな加藤さん。幻視だなんて、私はちゃんとこうしてあなたの前に立っているでしょう」  花子が見合いをしたときと同じ、矢羽根模様のお召の|袷《あわせ》に、つづれ織の|臙《えん》|脂《じ》の帯をしめて立っていた。髪にさした桃色の髪飾りが彼女の|頬《ほお》の色とうつり合っていた。  花子は加藤の生家の前に立っていた。生家の|格《こう》|子《し》|戸《ど》はしっかりしまって、中には|誰《だれ》もいないようだった。道が|凍《い》てついていた。道の横にかきよせた|泥《どろ》まじりの雪の上にミカンの皮が見えた。 「おれは夢でも見ていたのか」 「山ばっかり行くから、山の夢を見るのだわ」 「花子さんは山が|嫌《きら》いなんですか」 「好きだか嫌いだかわからないわ。だって山へ行ったこと、ないんですもの」  花子がそういって、眼を山の方へやった。加藤は花子の視線の延びていく方を見た。一寸先も見えない暗夜だった。霧と風の夜だった。花子の姿はなかった。  山で遭難して幻視幻聴を体験した話は聞いたことがあった。だがそれは飽くまでも話であって、その実在について加藤は疑問を持っていた。だがその幻視と幻聴が、予告なしに彼の前に現われたことで彼は|驚愕《きょうがく》した。恐怖した。死にたくないと思った。この危機を脱出するにはいかなる方法を取るべきかを、彼の中にまだ残っている思考力を凝集して考えた。 「地蔵堂でも仮眠のていどだし、|昨夜《ゆ う べ》は全然眠っていない。疲労しているのだ。これ以上歩き廻って消耗することは危険だ。眠るがいい、二、三時間眠れば、体力が|恢《かい》|復《ふく》する。な、加藤、雪洞にかえって眠れ」  加藤はそういう自分の声を聞いた。 「いや加藤、眠ることは死を意味する。きさまの下半身はすでに凍傷になりかかっている。歩くことだ。動いているうちは、お前の身体に血が流れる。だが休んだら凍る。一度停止したエンジンを動かすことは困難だ」  そういうもう一人の加藤がいた。動かないで雪洞に入って眠れという加藤と、歩けという加藤と、その|何《いず》れかに決しかねている加藤と、三人のまったく同形な加藤がそこにいた。三人の加藤は同じ声色でしゃべりまくっていた。 「加藤はおれだ。おれにまかしてくれ」  加藤はその自分の声をつぶやきのように細いものに聞いた。雪洞に引きかえすにも、引き返す道がわからなかった。懐中電灯をつけて、足跡をたどればいいが、その考えも努力する力もなかった。ただ加藤は、死に抵抗していた。睡魔に勝つことが死に勝つことだと思った。やがて明け方の最低気温の時刻が来る。その明け方の寒さを乗り越えて朝を迎えさえすれば、生きられるような気がした。理屈ではなく、彼の体験からする本能的な計算だった。 「こんなところで死んじゃあいけない。こんなけちな山では死にたくはない」 「加藤さん、あなたはなぜ死ぬことばっかりいっているの。こんなすばらしい天気の日に、なぜあなたが死なねばならないのかしら」  花子がスキーを履いて立っていた。花子がスキーをやることは知らなかった。ブリューのスキーズボンに手編みの白のセーターはよく似合った。頭にはなにもかぶっていなかった。見合いのときにつけていた桃色の花の髪飾りが、朝日にきらきらと輝いていた。 「加藤さんは、あまりスキーがお上手ではないのね」  花子がいった。 「スキーはからっきしだめなんです」 「じゃあ私がリーダーってわけかしら」  花子が加藤の先に立って滑り出した。加藤は遅れてはならないと思ったが、遅れた。待ってくれといおうと思ったがいえなかった。彼は花子のシュプールの跡を歩いた。ときどき遠くから加藤を呼ぶ花子の声が聞えた。花子の声の導くままに|牽《ひ》かれていくのは、それほど疲れることではなかった。寒くはなかった。一点の雲もなく空は晴れていた。そこがどこのスキー場なのかわからなかった。加藤はなにかにつまずいて倒れたとき、横腹をひどく打った。息も止るほどの痛さだった。その痛撃で加藤はわれにかえった。  彼がぶっつかったのは棒くいであった。それが、ただの棒くいではなく、人工を加えたものらしかった。彼は棒くいのまわりの雪をかきわけて見た。そこに指導標があった。それは菅原から諸鹿へ越える峠のコルにあった指導標であった。霧は相変らず深かったが、風は|止《や》んでいた。いつの間にか朝になっていた。花子の幻視と幻聴に導かれながら、いつかそこまで来ていたのであった。幻視でも幻聴でもなく、歩きながら眠っていたときに見た夢だったかもしれなかった。  加藤は霧の中を菅原村に向っておりていった。スキーはほとんど使えなかった。滑るとすぐ転んだ。転ぶと眠くなった。犬の声が聞えた。猟犬を先頭にした猟師が二人登って来た。 「菅原村はここをおりればいいのですね」  二人はそういう加藤の異様な姿を見たまま顔を見合せてから、 「菅原村はすぐそこだが、どうしたのだね」  といった。幻覚でもなく幻視でもなく、二人はまさしく猟師であることに間違いないと加藤は思った。どうしたと聞かれても、答えるのが面倒だった。加藤は黙って頭をさげるとふらつく足を踏みしめながら菅原村に向って最後の努力をこころみた。  菅原村には、以前夏来たときに泊った家があった。彼はその家についたとき、水を飲む格好をして見せた。その家の主人は、山でひどい目に会ったとき、どうすればいいかをよく知っていた。加藤は|濡《ぬ》れたものを脱がされ、|囲《い》|炉《ろ》|裏《り》|端《ばた》に|坐《すわ》らされた。熱い|粥《かゆ》が与えられた。  囲炉裏で音を立てて燃える火がなぜこんなに美しいものだろうかと加藤は思った。加藤は死んだようにそこに眠りこんだ。  目が覚めると、日はもう山の陰に沈んでいた。加藤は、熱い飯を腹いっぱいつめこむと、すっかり乾いた衣服を身につけて、浜坂へ下っていった。体力はすっかり恢復していた。田中まで来ると真暗になった。湯村まで来たとき加藤は浜坂の生家に寄ってはおられないと思った。  明日は一月四日である。会社の始まる日であった。新年の顔合せで、事実上の仕事はしないけれど、休めば欠勤になる。外山三郎が課長だったときは、一月四日の日は大目に見てくれたけれど、影村課長はそんな男ではなかった。もし遅れたら、影村がなにをいうか加藤はよく知っていた。どうしても今夜中に神戸に帰らねばならないと思った。  湯村で彼はハイヤーをたのんだ。そうしないと最終列車に間に合わなかった。雪の道を自動車は浜坂へ走った。 「駅へ|真《まっ》|直《す》ぐですか」 「そうだね」  加藤は腕時計を見た。まだ二十分あった。 「浜の方へやってくれないか」 「浜?」 「いいんだ|俺《おれ》が口で教える」  加藤は運転手に行く先を指示した。加藤は生家へちょっと顔を出して父親に顔だけ見せてやろうかと思ったが、途中でその考えを変更した。父がそのまま加藤を帰すはずがないし、その父をふり切って帰れば父は悲しむだろうと思った。病床の父に心配させたくはなかった。 「右へ曲ってくれ」  加藤の乗った自動車は生家の前を通って右に曲って、なおしばらく走ったところで、 「その電柱のところで止めてくれ」 「おりるんですか」 「いや、ちょっとばかり用を足して来るのだ」  加藤は止った自動車の中で、懐中ノートの一枚に走り書きした。 「山を越えて来たが、時間がないので終列車で神戸へ帰ります。ありがとう。文太郎」  二行に書くと、その紙を二つに折って、表に花子の名前を書いた。加藤は自動車をそこに止めて置いて、花子の家の方へ走っていた。まだ|灯《あか》りがついていた。花子は起きているような気がした。花子に会いたかった。彼は二つに折った紙片を格子戸の|隙《すき》|間《ま》から落しこんで、自動車へ走り帰った。 「駅へ大至急だ」  加藤はほっとした。その奇妙な手紙を読む花子を想像した。最後に書いたありがとうという意味がおそらく花子はわからないだろうと思った。筆のいきおいで、そう書いてしまったのだが、実は、加藤を導いてくれた花子の幻視と幻聴にありがとうというつもりだった。  浜坂へ自動車がつくのと汽車が入るのとほとんど同じだった。列車は満員であった。彼は通路にルックザックをおろして腰かけた。  花子の幻視と幻聴に導かれて生きて下山することのできたのをそこでゆっくり考えた。  花子の幻視と幻聴はたしかに彼を導いた。そして彼は救われた。だが、そうだと考える前に、彼はその道を夏の間に二度も歩いたことを考えねばならなかった。その経験に併せて、彼の冬山に関する一般的常識が無意識の中にも彼をして正しい道を歩ませたと考えるのが妥当のように思われた。だが彼は、そういう理屈よりも、花子にありがとうといってやって、ほんとうによかったと思った。すぐ彼女から達筆の手紙が来て、ありがとうについて説明を求められるだろうが、そのときはそのときで考えればいい。彼は腕を組み、背を丸め、眼をつぶった。      11  その|挨拶状《あいさつじょう》には、いやに堅くるしい文句が印刷されてあった。いろいろと御世話になりましたが、今回満州へ行くことになりました。今後ともよろしくという内容であった。差出人は、園子になっていた。  挨拶状の余白に、 (六月三日午後六時神戸出港の大連丸で|発《た》ちます。K)  と書いてあった。  その字は金川義助の字であった。Kとしたのは加藤の下宿の、金川しまのことを考慮した上のことだと思った。  加藤はその挨拶状を長いことじっと|眺《なが》めていた。金川義助が満州に去っても、金川義助の妻しまとその子は残る。 「おじちゃん、なによんでるの」  義郎が階段を登って来て、加藤が読んでいる葉書を|覗《のぞ》きこんだ。 「手紙を読んでいたのだよ、坊や——」 「ぼくにも読んでちょうだい」  |智《ち》|恵《え》のつき出したばかりの義郎は、加藤がなにか読んでいると、すぐそばへ来て読んでくれとせがむのである。父親がいなくて|不《ふ》|憫《びん》だと思う加藤の気持に、幼児は率直に甘えていた。  加藤の留守中に二階へあがると、しまに|叱《しか》られるから、義郎は加藤が帰るのを待っていて二階へやって来るのだった。 「ねえ、おじちゃん、よんでよ」  加藤はその挨拶状を読んで、その内容を説明してやった。 「これはなんて書いてあるの」  義郎は、余白に金川義助が書き添えた文字をゆびさしていった。加藤はどきっとした。親子の血のつながりが、本能的に、現われたのかもしれないとさえ思えるのである。加藤はそこをていねいに読んでやった。 「ケイってなに」  加藤はそれをうまく説明できなかった。 「ケイっていう名前なんだよ、この人は」 「大人でケイちゃんなんて名前あるかしら」  いつの間にか階段の登り口まで、義郎を迎えに来ていたしまがいった。しまは、加藤の不在中にその挨拶状を読み、その余白に書かれたKに、やはり疑問を持っていたのである。 「加藤さん、そのKって人だれなの、男の人のような筆つきだけれど……園子って人の|旦《だん》|那《な》さんなの」 「まあ、そんなものだ」  加藤は|狼《ろう》|狽《ばい》した。狼狽をかくすために、挨拶状をナッパ服のポケットに入れると、がたがたその辺をかきまわして、|手拭《てぬぐい》と|石《せっ》|鹸《けん》を持つと、 「|風《ふ》|呂《ろ》へ行って来る」  と廊下に出た。  しまは、その加藤のあわてぶりを黙って見ていた。 「加藤さん、いつもあなたはお風呂はごはんのあとよ」  しまはそういって階段をおりていった。  金川義助と園子が神戸を去る日の朝、しまは茶の間で新聞を読んでいる加藤にいった。 「加藤さんのところに来た挨拶状に書いてあった園子さんて方ね。ずっと前うちへ来た方でしょう。お上りなさいといったけれど上らずに玄関で帰ってしまった方……」 「そうです。それで?」 「いよいよ今日の午後六時ね」  しまはそれだけしかいわずに、思いつめたような眼で考えこんでいた。  加藤は、もしかするとしまが、あの挨拶状に書いてあったKを、金川義助と読みとったかもしれないと思った。しまは自分の夫の字を知っているはずである。加藤は、しまに問い詰められたら本当のことを答えねばならないと思った。しかし、しまは、それ以上の|詮《せん》|索《さく》らしいことはひとこともいわずに、加藤が食べ終った食器を持って、勝手へ引込んでいった。  加藤は会社が終ると、すぐタクシーに乗って神戸の|埠《ふ》|頭《とう》にいった。金川義助と園子はすでに乗船していた。見送り人が、デッキで、ふたりを取りかこんでいた。見るからに一癖ありそうな男や女たちだった。その中にたったひとりの異分子のように加藤は割りこんでいっ た。 「加藤、長いこと世話になったな。もうこれで君には一生会えないかもしれない。おれは満州に骨を埋めるつもりだ」  金川義助は、満州に渡っていく者が例外なしに使う言葉を、|臆《おく》|面《めん》もなく使っていた。大勢の前だからしきりに虚勢を張って大きな声でしゃべったり笑ったりしている彼の肩のあたりに、見逃すことのできない生活のやつれが見えていた。  園子も一団の女にかこまれて|昂《こう》|奮《ふん》していた。加藤が挨拶にいくと、 「送りに来て下さったの、ありがとう。加藤さんも元気でね」  笑顔でいった。感情のこもっていない、ただの挨拶だった。送りに来た大勢の人の中では、それ以上の言葉は、金川にしても園子にしても出なかったのである。  加藤は、ふたりを見送る人たちとやや離れたところで、黙って立っていた。  ドラが鳴った。見送り人は船をおりていった。船と埠頭を結ぶ、橋がはずされると、デッキから埠頭にいる見送り人を目がけてテープが盛んに投げられていった。  加藤は金川義助から投げられた黄色いテープを偶然のように受け止めた。テープは風の方向に弧を|画《えが》いていた。 「おじちゃん、それ持たして」  加藤はびっくりしてふりかえった。義郎がそこに立っていた。 「坊やも来たのか、お母さんは」  加藤はふりかえった。しまが加藤のうしろに立っていた。 「さあ坊や、しっかりこれを持つのだ。はなしちゃあいけないよ」  そして、加藤はしまにいった。 「あなたもここへ来て、坊やのテープをうまくほどいてやって下さい」  船が出ていくにつれてテープは延びるから、それに合わせて、巻紙を繰り出してやらないと、切れてしまう。加藤はそのことをいったのだ。しまは無表情だった。返事もしなかった。怒りの凝結した眼で、デッキにいる金川義助と園子を見詰めていた。  金川義助の顔に、はっきりと混乱が起った。彼はテープで義郎と結ばれたその時に、生長したわが子をはっきり見たのである。彼は、妻子も捨てた。だが、いま彼とわが子とをつないでいるテープを切ることはできなかった。  船は徐々に岸壁を離れていった。万歳の歓声が上った。テープは延びていく。加藤は義郎の手に持っているテープをほどいてやった。テープにつながれた金川義助が義郎を見詰めていた。気のせいか金川義助の眼に涙が光っているようであった。金川義助は他の乗客のように、やたらに手を振っていなかった。|誰《だれ》の眼にも、金川義助が、今は一本のテープにつながる男の子と最後の別れを惜しんでいるとしか見えなかった。  加藤は、金川義助の隣にいる園子を見た。彼女も、金川義助のおかしな態度に気がついているらしかったが、彼女はわざとそっちは見ず、彼女が、その埠頭に群がっている人たちの送別を一身に受け取るかのような大仰な態度で、熱狂的にハンカチを振り、なにか叫んでいた。  テープはつぎつぎと切れていったが、義郎の持ったテープは|奇《き》|蹟《せき》的に切れず残っていた。それが埠頭と大連丸をつなぐ最後のテープとなった。  大連丸は埠頭から充分に離れたところで汽笛を鳴らした。そして前進した。巨体が動くと波が立った。義郎の持っていた黄色いテープはその瞬間に切れて、波の上に落ちた。金川義助は切れたテープの端を持ったまま、|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ち|竦《すく》んでいた。突然彼が手すりにすがって前に倒れこむように|膝《ひざ》をついた。だが、そこから船はまた方向を変えたので、金川義助のそのあとの姿勢は見えなくなった。  加藤は金川義助が号泣しているのだと思った。泣くだけの良心をまだ持っていた金川義助を思うと、加藤もまた泣けそうだった。  船が遠のくと、埠頭の人は逃げるように去っていった。あとに、加藤と坊やとしまとそれから宮村健が残った。四人は長いことそこに立っていた。  義郎は船に乗っていったおじちゃんは誰だとしまに|訊《き》いていた。義郎につづけて何度もそれを聞かれると、しまは、せきを切ったように泣いた。義郎は、声を上げて泣く母の姿を不思議そうに見守っていた。 「あのおじちゃんは坊やの知らない人だ。このおじちゃんのおともだちなんだ」  加藤はこのおじちゃんと、自分自身をさした。 「さあ帰ろう坊や、なにか好きなものを買ってやろう」  加藤は義郎の手を引いて、宮村健の方へ近づいていった。 「やっぱり来たのだね」  宮村健はうなずいた。ひどく青い顔をしていた。もうそろそろ暑いといってもいいほどの陽気なのに、宮村健は寒そうな顔をしていた。眼がうるんでいた。加藤はあわてて、宮村健から眼をそむけると、 「とうとう行ってしまった」  といった。  ふりかえると、船は|夕《ゆう》|陽《ひ》を受けて金波に輝く洋上に、気ままに流れていく浮遊物のように小さく見えた。 「電報」という呼び声を聞いたとき、加藤ははっとした。彼のところに来た電報ではないかと思った。ちょうどその時、加藤は寝間着に着かえたところだった。加藤は反射的に部屋を出て、階段の上までいって下を見た。しまが電報配達夫から電報を受取っていた。しまが電報の文面にちょっと眼をやり、うしろを向きかけたとき加藤は、父の死を思った。  階段を登りつめたところに電灯が一つあるだけだったし、玄関の照明灯を背にしているから、しまがどんな顔をしているかわからなかったが、電報を持つしまの手が気のせいかふるえているように見えた。しまは階段の上にいる加藤の方に黙って電報をさし出したままでなにもいわなかった。  加藤は階段を|駈《か》けおりていって、しまの手からひったくるように電報を取ると、玄関の電灯をたよりに読んだ。 「チチキトクスグカエレ」  兄からの電報だった。頭の中に針が一本打ちこまれたような気がした。眼の前が一瞬|霞《かす》んだ。そして病床にいる父の顔が浮び上った。死んだ顔ではなく生きた顔だった。 「死んだのではないキトクだ、まだ生きている」  加藤はそういって、階段を駈け登って彼の部屋へ行くと、すぐまた階段を駈けおりて来て、そこにまだぼんやり立っているしまにいった。 「浜坂へすぐ帰る」  しまは、大きく|頷《うなず》いた。浜坂へ帰ることはわかっているが、彼はいったい彼女になにを要求しているのであろうか、汽車の時間を確かめてくれというのか、夜汽車の弁当を用意してくれというのか、あとで会社へこのことを連絡してくれというのか、しまにはわからなかった。  加藤は青い顔をしていた。二キロも三キロも走ったあとのような呼吸の乱れ方だった。加藤は二階へあがると、そこに敷いてある|布《ふ》|団《とん》をたたみにかかった。布団なんか、どうだっていいのに、ひどくあわてふためいて、布団をたたむと、ばたばた階段をおりて外へ出ようとした。 「どこへ行くのです、加藤さん」  しまがいった。 「外山さんに知らせて来る。会社を休まねばならない」 「冗談じゃあないですよ、加藤さん、寝間着姿で……」  そういわれて加藤は部屋へ|戻《もど》ると、いつも会社へ着ていくナッパ服を着た。  あわただしい気配に、隣室にいる下宿人の油谷が出て来た。彼はまだ寝てはいなかった。油谷は加藤が手に持っている電文を読むと、 「加藤さん、とにかく故郷へ帰る支度をするんです。まず背広を着る、ありったけの金をふところに入れる。ボストンバッグひとつぐらい手に持って、神戸の駅へタクシーでかけつけるのです。どの汽車が間に合うか駅へ行って聞けばいい」  油谷にそういわれて、加藤は、やっとわれにかえったようだった。加藤はナッパ服を脱ぎ背広に着がえた。そばで油谷がいちいち注意を与えていた。 「会社の方へは、明日ぼくから電話をかけて置く。チチキトクの電報が来たのだから、会社だってあなたの立場を了解してくれるでしょう。なにも心配することはない」  加藤は油谷のいうことにしきりに|相《あい》|槌《づち》を打っているだけで、言葉は発しなかった。空のボストンバッグを|携《さ》げて、夜の町へとび出していくあとを油谷が追った。油谷がタクシーを止めて、加藤を押しこむように乗せた。タクシーに乗って、彼ははじめて時計を見た。十時を十分すぎていた。加藤はきちんと十時に寝ることにしていたから、電報が来たのは、おそらく、十時一分か二分であった。ずい分あわてていたようだったが、電報を受取って八分後には下宿を飛び出して来たのである。|早《はや》|業《わざ》だったが、彼には、その間が一時間にも二時間にも思われてならなかった。  汽車の時間がうまくいったとしても、浜坂へつくのは明朝である。とにかく、行けるところまで今夜中に行っておこうと決心すると、やや気持は落ちついた。  夜汽車は|憂《ゆう》|鬱《うつ》だった。  深夜の山陰本線は煙になやまされて眠れなかった。汽車がトンネルに入ると煙は窓の|隙《すき》|間《ま》から入って来て、客室に立ちこめる。汽車がトンネルを出ると乗客はいっせいに窓を開けて空気を入れ替えようとするのだが、煙が抜け切らないうちに、またトンネルに入るのであ る。  加藤は窓を閉めたまま、父のことを考えつづけていた。ずっと病床についている父に、いったい自分はなにをしてやれたのだろうかと思うと気が重くなった。 (文太郎が嫁を|貰《もら》うまでは死ねない)  といいつづけていた父が、文太郎と花子の結婚式も待たずに死んでいったとすれば、よほど自分は不孝者である。  加藤は時々電報を出してひろげた。チチキトク——それは従来の常識によると、死んだと同じ意味であった。キトクの電報を受取ったとき相手は死んだと解して大きな間違いはなかった。だが加藤は、その電報が例外であって欲しいと思っていた。進行方向の右側に時々海が見えた。月のない夜だったが、黒い海の向うに水平線が見えると、加藤は重苦しいほど暗い夜の中に、いよいよさけられない人生の区切点へ近づいていくような不安を感じた。  浜坂は山と海とに朝日を分断して文太郎を待っていた。新緑の山々は山雲と濃い霧におおわれているのに、海は朝日のもとに明るく輝いていた。  加藤はその海が美しいと思った。もし父の死が今朝であったら、|生涯《しょうがい》を海にかけた父の死にふさわしい朝だと思った。涙が加藤の|頬《ほお》を伝わった。  花子がプラットフォームに立っていた。  加藤は花子が出迎えてくれていることを期待していなかった。もしその時、朝日が花子にさしかかって来なかったならば、加藤は、うつむいて立っている花子を見逃したかも知れなかった。雲の間から一条の光の束が、プラットフォームに立っている花子に投げかけられた。それはちょうど舞台の上に現われた主演女優に向って、照明灯がそそがれたような効果があった。紫地にうす桃色の小花を散らせた、しののめ|縮《ちり》|緬《めん》の|単衣《ひ と え》の着物を着た花子の姿がプラットフォームに浮び上った。加藤は足を止めた。花子と視線があった。加藤の顔が紅潮した。胸が鳴った。彼は、花子に対して微笑を用意した。だが花子の顔はあまりにも、もの|淋《さび》しかった。悲痛に満ちた顔であった。気のせいか、彼女の眼はうるんでいた。毛先を|内《うち》|捲《ま》きに軽くカールした髪が肩のあたりでゆれていた。泣いているようにさえ見えた。  加藤はそのとき、はっきりと父の死を見た。父は間違いなく死んだのだと思った。花子がそれを知らせに来てくれたのだと思った。  加藤は花子の方へ|真《まっ》|直《す》ぐ歩いていって、ぴょこんと頭をさげた。花子が小さな声でなにかいったが、加藤にはよく聞き取れなかった。 「父は|亡《な》くなったのですね」  加藤は、花子の大きなうるんだ眼にいった。 「はい……」  花子はハンカチを出して眼に当てた。  二人は肩を並べて、浜坂の町を歩いていった。加藤は片手に携げている、からっぽのボストンバッグのむなしさが、そのままいまの自分の気持だと思った。なんでこんなものを携げて来たのだろうかと思った。捨てたくなった。 「父は|最《さい》|期《ご》になにかいいましたか」 「はい——」  けれど、花子は父が最期になにをいったかはとうとういわなかった。いえないようだった。  加藤と花子とふたりだけで、浜坂の町を歩いたのははじめてだった。加藤は父の生前中にこういう姿をなぜ父に見せてやらなかったかを悔いた。そのつもりで浜坂へ帰ってくればいいのに、それをしなかったのは花子よりも、山の方により以上の魅力を感じていたからであろうか。  海から吹いて来る風が、路地を通り抜け、家並みを|廻《まわ》りこみ、そして、ふたりにまつわりついた。加藤は、花子の移り香を|嗅《か》いだ。さっきプラットフォームで花子を見たときの胸のときめきが、その|匂《にお》いとともにまた加藤を戸惑わせた。加藤は、一歩ほどおくれてついて来る花子の顔を見たかったが、ふりかえって話しかけることが恥ずかしくてできなかった。二人はほとんど固定した距離を置いて加藤の生家へ歩いていった。  花子と歩いていると父を失ったという悲しみが、どこかにかくれて、美しい娘と歩いているという実感のみが加藤をとらえた。加藤は身体中がむずかゆいほど、花子の|傍《そば》にいることを意識した。花子が比較的落ちついた顔でついて来るのが不思議でならなかった。加藤は、花子と歩いていて、ふと父の死から遠のくことが、父に悪いことをしているのだとは思いたくなかった。胸をしめつけるようにせまって来る、花子に対する|愛《いと》しみの感情が、なぜこれほど強烈に|湧《わ》いて来るのか、それは加藤に今まで一度もなかった心の動きであった。  加藤の生家の|格《こう》|子《し》|戸《ど》が見えるところまで来ると、 「ではここで失礼します」  花子がいった。加藤はずっと彼女と一緒にいたかったのだが考えてみると、花子と彼はまだ他人だった。花子の家と加藤の家は、今のところ、|縁《えん》|戚《せき》関係はなかった。  加藤は、花子の姿が見えなくなるまで見送ってから、生家の門をくぐった。  加藤が考えていたほど|悲《ひ》|愴《そう》|感《かん》はなかった。近所の|人《ひと》|達《たち》や親戚の者が、あわただしく出入りしていた。葬儀という当り前の行事の準備中だったのである。加藤の家族は、父の|遺《い》|骸《がい》の置かれている奥の間に|坐《すわ》っていた。  父の死に顔は安らかであった。  加藤が合掌をおわると、兄が、父の顔に白布をかぶせた。 「一昨日あたりから、妙なことをいい出してな」  兄が話しだした。 「文太郎の|祝言《しゅうげん》をすぐやってくれ」  病床の父は廻らぬ舌でそういった。そんなことをいったって、向う様には向う様の都合もあるし、文太郎の方にだって都合があるだろうと兄がいっても、父は聞かなかった。 「おれはあと三日は生きられない。だから生きているうちに文太郎と花子の祝言姿を見たい」  兄は困り果てて伯母を呼んだ。伯母はいつもと様子が変だから、花子さんだけでも呼んで、会わせて見ようか、そうすれば気が晴れるかも知れないと兄にいった。  花子が病床に呼ばれたのは昨日の昼過ぎだった。 「花子さん、文太郎のことをお願いします。山ばっかり行ってしょうがない文太郎をあなたの力で、人並みの人間にしてやってください」  文太郎の父はもつれる舌で同じことをなんべんもいった。舌はもつれているが、眼は生きていた。花子にすがりつくような眼であった。最後に花子に手を合わせて、 「文太郎のことをお願いします」  悲痛だった。異常な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だったので伯母が心配して、父の傍に寄ってなにかいおうとしたとき父は眼をつぶった。 「それきり眠ったままだった。息を引きとったのは、|昨夜《ゆ う べ》の九時ごろだ」  兄は文太郎に語ると、新しいローソクに火をつけた。  加藤は父が死ぬ|間《ま》|際《ぎわ》に、文太郎を人並みの人間にしてくれと花子にたのんだという話を頭の中で|反《はん》|芻《すう》していた。父のいうとおりだった。山に執着している自分はたしかに人並みではないかもしれない。人並みの人間になれということは、山をやめろということである。  加藤は花子が、その父の遺言をどのような形で加藤に押しつけて来ようとも、それだけはむずかしいだろうと思った。山を除いたら、自分はない。なぜそうなのか加藤にはわからない。だが山以上に彼を引きつけるなにかが、花子との結婚によって生ずる以外、父が願っている人並みの人間になることはあり得ないと思った。 「お前、花子さんに会ったか」  兄がいった。加藤はうなずいた。加藤は、そのときしきりに、花子とふたりだけで山について語り合ってみたいと思っていた。  父の葬儀が済んで会社へ出勤すると、課長の影村が加藤を待っていた。 「黙って休んでは困るじゃあないか」  それが影村課長の第一声だった。 「同じ下宿の油谷さんから電話でお願いしたはずですが」 「電話はあったよ。だが君からのたよりはなにひとつとしてなかったぞ。葬儀が何日で、幾日間休暇をもらいたいなどということはいっては来ない。チチキトクという電報を持って帰郷したままだから、君のお父さんが死んだかどうかもわからない。まさか死んだかとも聞けない、|勿《もち》|論《ろん》葬儀の日程を問合せるわけにもいかない——」  加藤は頭をさげた。そういえば、たしかにそうだった。故郷に帰ったまま会社には、なにも通知をしてなかった。  しかし、と加藤は考える。こっちは父の死で頭が|動《どう》|顛《てん》していて、会社へ父死去の電報を打つ|智《ち》|恵《え》は出ない。もし影村に部下を思う気が少しでもあったら、その後の御父君の容態いかがぐらいの電報を寄こしてもいいじゃあないか。だが加藤は、そんなことをふと思っただけで口には出さなかった。こういうところが父のいう人並みでないところかも知れない。 「え、どうなんだ加藤君」  影村がいった。 「すみませんでした」 「おれは謝ってくれといっているのではない。君のお父さんはほんとうに死んだかどうかと聞いているのだ」 「ほんとうに死んだかどうかですって?」 「そうだ。チチキトクという電報が来たといって山へ行く手もあるからな」 「私は父の死をだしに使って山へ行くほど心の腐った人間ではありません」 「それならなぜ黙って故郷へ帰ったのだ。|日《ひ》|頃《ごろ》が日頃だから、そう考えられてもしょうがないだろう」  加藤は抗議の余地がなかった。明らかに、影村の言葉は、いいがかりであり、悪意に満ち満ちたものであった。それにしても課の中で、ひとりとして、加藤の肩を持とうとする者がなく、影村と加藤とのやり取りを知らん顔をして聞いている|彼《かれ》|等《ら》の顔を見ていると、課全体が加藤にそっぽをむき、加藤の行動に批判の眼を送っているように思われてならなかった。  加藤は孤独を味わった。課員とは仕事以外なんの交際もない。氷水を一緒に飲もうといったって彼だけは仲間に入らなかった。会社の帰りにいっぱいやろうというつき合いもしなかった。  そして彼は黙々として働き、仕事の上では実績を上げていた。 「わかったら、今からでもいいから休暇願の届けを出すがいい」  加藤は返すことばがなかった。  彼は下宿に帰っていろいろ考えた。いろいろ考えても、究極は、彼が人並みでないというところに問題があった。人並みになるには山を捨てることで、彼のたったひとつの秘密、ヒマラヤ貯金さえも断念しなければならなかった。  その夜、彼は外山三郎のところへ訪ねていって、そのなやみをうったえた。 「今さら、なにをいうのだ加藤、きみのお父さんはきみが人並みではないといっているのではない。より以上人間として進歩してくれと願っているのだ。きみは今のきみのままでいいのだ。なにもいまさら生活態度をかえることはない。加藤は加藤らしい生き方をすればいい。きみは少しは変っているさ、きみのようにいろいろと変った考え方を持った人が集まってこそ会社は成り立っていくのだ」  外山三郎はそこで話題をかえて、加藤の結婚話に持っていった。 「きみが花子さんと結婚して、どう変るかが見ものだな」 「変りませんよ。|誰《だれ》がなんといったってぼくは山をやめません」  加藤は外山の前で花子さんというのは恥ずかしいから、誰がなんといったってと廻りくどいことをいった。 「花子さんというひとは、たいへん利口なひとのようだから、きみに山をやめてくれなどとはけっしていわないだろう。今までどおり、どうぞ山へお出掛け下さいなどともいわない。花子さんは黙っている。黙っていても、きみは自然に山から遠ざかっていく——」  外山三郎は予言者のような口をきいた。  加藤は外山三郎の家を出るとき、庭園灯の下に咲いている白と赤のアマリリスのひと群れに眼をやった。  ずっと前、園子がこの家にいたころ、やはり、庭にアマリリスが咲いていた。加藤は、満州へ行った園子と金川義助のことを思った。園子が頭に浮ぶと、その後、宮村健がどうしているのか気になった。  加藤は部屋の中を見廻した。押入れに古新聞紙が二枚ほど残っていた。それを丸めて|屑《くず》|籠《かご》に入れると、あとにはもうなにもなかった。加藤は、ゆっくり二階からおりて来て、階下の奥の部屋にいる多幡新吉とてつ|婆《ばあ》さんに|挨《あい》|拶《さつ》した。新吉はほとんど寝たっきりだったし、てつ婆さんは新吉の世話をするのがやっとで、下宿人の方は、金川しまに任せっきりにしていた。 「長い間お世話になりました」  と加藤がいうと、新吉は頭をさげながら、聞えるか聞えないほどの声でなにかいった。てつ婆さんは、孫娘が死んで以来やたらに涙っぽくなっていて、加藤がこの下宿を出るというだけでもう泣いていた。 「加藤さんにはいつまでも居てもらいたいのですが奥さんをおもらいになって一軒持つには、うちの二階では不便でしょうねえ」  てつ婆さんは皮肉にも聞えるようなことをいった。  金川しまは、出て行く加藤になにかひとことふたこといいたそうな素振りだった。なにかいおうとするとき、しきりに|後《おく》れ|髪《がみ》をかき上げるしまの癖を知っている加藤は、大きな眼を開いて加藤を見上げている坊やの頭を|撫《な》でながら、 「しまさん、坊やをつれて遊びに来て下さい」  といってやった。 「加藤さん、なにかあったらまたお世話になることと思いますが、よろしく願います」  しまは丁寧に頭を下げた。  なにかあったらというのは金川義助のことをいっているのだな、と加藤は思った。 「結局、金川はあなたのところへ帰って来ますよ。坊やがいる以上、それはもうわかり切った運命のようなものです」  いつもむっつりしていて、ろくろく口を|利《き》かない加藤とすれば、それは最上級のお世辞だった。 「あてにしてはいませんわ、ただ坊やのことが——」  しまはそれ以上ものがいえなかった。父親のいないその子が、|小《お》|父《じ》ちゃん、小父ちゃんとしたっている加藤がいなくなったあとのことや、やがてその子が大きくなって、金川義助のことをいろいろと知りたがるようになったころのことを、しまが心配していることは明らかだった。 「坊やいい子でいろよ」  加藤は坊やの頭を撫でると、あがりがまちに坐って|山《やま》|靴《ぐつ》をはいた。山支度をしたまま下宿を出て、荷物と一緒に、池田広町の新居へ行って、そこからすぐ山へ行くつもりだった。  引越し用の、小型トラックが外で待っていた。加藤がトラックの助手席へ乗りこもうとするところへ、二階にいる油谷が外出先から帰って来た。 「加藤さん、いよいよスイートホームへ滑り込みっていうわけですね。うらやましいですな」  油谷は加藤と引越し用の小型トラックとを見比べながらいった。スイートホームに入るにしては、荷物が少なすぎるなといった顔だった。そういう挨拶に対して加藤は、例によって例のとおりの微笑とも苦笑ともつかない笑いを浮べただけだった。 「ぼくも結婚したいですよ。だが今の月給じゃね。それに、今年は東北の|飢《き》|饉《きん》でしょう。うちへ金を送ってやらないと、親兄弟が、餓死してしまいますよ。台風(|室《むろ》|戸《と》台風)が来る、大火(|函《はこ》|館《だて》)がある、三年つづきの飢饉——こういうことのつづいたあとはなにが起ると思いますか、戦争ですよ加藤さん、政府は苦しまぎれの末、国民の眼を外へ向けようとするのです」  油谷は、そこまでいうといい過ぎたかなといったふうな顔で、あたりを見廻して、 「とにかく元気で、生きられるだけ、生き延びましょう」  生きられるだけ生き延びようと油谷がいうのは、死を前提としての言葉であった。戦争はすでに大陸で始まっていた。戦争が拡大の|一《いっ》|途《と》をたどっていくことはもはや疑いのないことであり、間もなく大規模の徴兵が始まるだろうという|噂《うわさ》もまことしやかに伝わっていた。  加藤は助手台へ乗り込む前に、もう一度下宿をふりかえった。二階の彼の部屋の窓が開いたままだった。窓の下に貸間の札がぶらさがっていた。大正十四年の四月に越して来たときもたしかこんなふうだった。加藤はふと、この下宿へ引越して来たような錯覚に陥る。  加藤は、十年間彼の|住居《す み か》だった彼の部屋に向って手を上げた。そして、送りに出てくれた人たちに|会釈《えしゃく》して、助手台に乗った。 「でっかい戦争が始まるってほんとうですか」  トラックの運転手がいった。 「さあわからないね」 「始まるなら、始まったっていいから、はやいところ願いたいものだ。このままじゃあ、なにか窒息しそうでやり切れない」  運転手はやけに警笛を鳴らした。  加藤の新居は、今までの下宿からそう遠いところではなかった。わざわざ小型トラックを頼むほどのことはなく、リヤカーかなにかで運んでもよさそうなところだったが、加藤が小型トラックを頼んだのは、引越しは|綺《き》|麗《れい》さっぱり一度にしてしまいたいという気があったからである。  新居は池田広町の長田神社の前にあった。外山三郎が探してくれた家であった。南向きに小さい庭があって、家は古いけれど、こぢんまりして、いかにも新婚夫婦にふさわしいおもむきのある家だった。  すぐ裏に家主がいて、加藤が引越して来るというので、家を開け放して中を掃除してあった。  加藤はトラックの運転手に手伝わせて荷物を運びこむと靴を脱いであがった。広すぎるなと思った。四畳半に六畳、それに四畳半ぐらいの応接間が玄関|脇《わき》についていた。|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》もあった。広いな、広いなと思いながら、自分ひとりではなく、そこに花子も来るのだと思うと苦笑した。彼が持って来た荷物は応接間へ運びこんだ。どこへどう置くかは花子に相談して決めようと思った。そう考えたとき、加藤はもうひとりではなかった。  彼は新居をぐるぐると歩き廻った。裏がえしたばかりの畳の|匂《にお》いが新鮮だった。  彼は家の中をひとまわりしてから、雨戸を閉めた。山靴をはき、大きなルックザックを背負い、スキーを|担《かつ》ぐと、家主のところに挨拶にいった。 「おや加藤さん、結婚式は延びたのですか」  家主の奥さんがいった。 「いいえ、予定どおりにやります」 「予定どおりに?」  それではなぜ山支度をしていくのかという顔に、 「山の帰りに結婚式をすませて来ます」 「まあ、まあ」  家主のおかみさんはあきれてものがいえないといった顔をした。そのいい方は、山が主題で結婚式が副題のように聞えたからであった。  加藤は独身における最後の冬山登山行を特に意義づけようとは考えていなかった。十二月末から正月にかけての十日間の冬山行は、ここ数年来の行事であった。天気の|如《い》|何《かん》にかかわらず、休んだことはなかった。一年のうちで、この十日間ほど楽しいときはなかった。これほど充実した人生を味わえるときもなかった。十日先に花子との結婚式を控えていたとしても、彼の冬山登山行を中止するわけにはいかなかった。  昭和十年一月二日、加藤は立山|山《さん》|麓《ろく》の|弘《こう》|法《ぼう》小屋に泊っていた。外は吹雪であった。昭和五年の同じ日にこの小屋で六人のパーティーと泊ったことがあった。その六人は剣沢小屋で|雪崩《な だ れ》に会って全員死んだ。加藤は、彼等六人が、その夜、この小屋のどこに座をしめてどんな話をしたかはっきりと覚えていた。六人のあとを追従しようとして、|嫌《きら》われに嫌われたこともきのうのことのような気がした。  その六人の死が、加藤を徹底的な単独行に追い立てたのだという人があっても、加藤はそれを、否定も肯定もしなかった。加藤は終日吹雪の音を聞きながら追憶にふけっていた。  山ばっかり行っている文太郎を人並みの人間にしてくれと、花子に遺言して死んでいった父のことを思うと、彼が山が好きだということが、彼の周囲の者に異常な心配をかけていることになり、それが父のいうところの人並みでない人間としての評価を与えられるのではないかと思った。外山三郎は気にするなといっても、世間一般では、加藤のことを人並みでない人間としていることは間違いなかった。  人並みでないといわれても、山から離れることはできない自分を、加藤はいままで何回となく見直したものであった。  なぜ山にそれほど|牽《ひ》かれるのか、山があるから山へ行くのだといったような逃げ口上では済まされないものがそこにある。  加藤はそれまで山に行くたびに、なんとなく|何《な》|故《ぜ》山へ登るかについての理屈をつけていた。かつて彼は、汗を流すために山へ登るのだと、ほんとうに考えたことがあった。汗とともに、彼の体内の、むしろ精神的内面にいたるまでのあらゆる毒素が放出されたあとの|爽《そう》|快《かい》|味《み》を満喫するために山へ登るのだと思ったことがあった。それは単純な考え方だったけれど、当を得たものであった。山から帰って来たときには、会社内での|面《おも》|白《しろ》くないことは、ある程度忘れていた。|身体《か ら だ》がなんとなく軽く、身体中の細胞がすべて生れ変ったようなあの気持は山以外では得られないものだった。そのつぎに加藤がなぜ山へ行くかについて彼自身に答えたものは、 (人間は困難な立場に追込まれれば、追込まれるほど生長する)  その困難な場を山に求めているのではないかということであった。その考え方は、苦行によって悟りを開こうとするバラモン教の僧と一部通ずるものがあったが、彼は、その行動を苦行だとは思っていなかった。自らの身体に|鞭《むち》を当てて苦しめることではなく、むしろ、自分の身を|可愛《か わ い》がりながら、より困難なものへ|攀《よ》じ登っていく姿を見つめていたかった。  彼は過去十年の山歴を考えた。数限りなく困難な場に遭遇して、その度に、その壁をぶち破って、登山家として生長し、技術者としても生長して来たつもりでいた。だが、その生長の方法は、あまりにも孤独であり過ぎた。加藤の生長を生長と認めている者はごく少数でしかなかった。 (単独行の加藤文太郎)  という名称は今や岳界においては特異な存在として承認されている。だが、それは加藤の生長を認めたものでも、彼の人格を|称《たた》えるものでもなく、飽くまで「変り者」という評価でしかなかった。  会社においても、彼は設計面で次々と新しいアイディアを生かした。完全霧化促進を|狙《ねら》って彼が設計した新しいノッズル方式は、小型ディーゼルエンジンに一種の革命をもたらした。だが、それは会社の利益に直結しただけであって、彼の生長と認める者は、ごく少数の人でしかなかった。彼は会社においても、「変り者」であった。  加藤は吹雪の音を聞きながら、 (山という困難なる場に人間の生長を求めつつあった)  と少なくとも二、三年間は考えていた自分が、やはり変り者だったのではないかと考えた。 (それではなぜ山へ登るのだ)  加藤は自問自答には|馴《な》れていた。山へなぜ登るかの自問自答を、|雪《せつ》|洞《どう》の中で一晩やったこともあった。 (いささか逆説的ではあるが、おれが山へ来なくなったとしたら、おれを山から引きはなした者があったとしたら、そいつこそ山の変身だと考えればいい) (つまり、山以上に君を引きつけるものがあったら、それを山と同一視してもいいのだな。仕事はどうだ。たとえば、神港造船に内燃機関設計部第四課ができて、君がその課長に就任したらどうだ) (多分、山はやめないだろう) (では聞くが、花子さんと結婚しても山は相変らずやるか) (おそらく山はやめないだろう) (もしきみが山をやめたとしたら、花子さんすなわち山と認めていいのか) (認めていいだろうな、花子さんと結婚して、おれが山をやめたとしたら、なぜ山へ登るかの回答を花子さんが持って嫁に来たことになる)  粉雪が、小屋の壁をこする音が断続的になり、やがて遠のいた。  加藤は外に出て見た。寒い星空の下に雪原は無限にも見えるほど遠くつづいていた。山の陰影は見えたが、その形はさだかではなかった。  一度は晴れた空も、明け方になるとまたふぶき出した。このあたりの冬山の天気は変りやすいのではなく、連続して悪いのである。はれることが|稀《まれ》であって、ふぶいているのが常識なのである。  午後になって、吹雪はひといきついた。太陽が久しぶりに雲の間から姿を見せた。  加藤は身仕度を整えるとスキーを|穿《は》いて、雪の中へ出ていった。彼の前に広く、遠く続く白い斜面がやがて立山連峰に行きつくあたりになると雲があった。山は雲の中にあった。  スキーのシールはよく効いた。面白いように足がすいっすいっと前に出ていった。歩き出すと彼は、|天狗平《てんぐだいら》の小屋のことだけを考えた。天狗平までは五時間はかかると思った。五時間の間に霧が出ることも考えられた。この広い雪原で霧に巻かれたら、どうしようもなかった。彼はシュプールの跡を、なるべく真直ぐにするように心がけていた。いよいよ|駄《だ》|目《め》だとわかったときにはシュプールの跡を追って引き返すのだ。付近の地形もよく観望していた。雪眼鏡を取ったりはずしたりした。霧が出たときの用意のためであった。地図の位置と、彼の歩行の速度もたしかめて置いた。霧が出たとして、地図と磁石と時計があれば霧中行進の自信があった。ときどき彼は、眼をつぶって、歩数を数えながら、天狗平小屋に向って行進した。相当歩いてふりかえって見ると、彼のシュプールの跡は目標に対してかなり左の方へ曲っていた。 (霧が出たとしたら、面倒のようだが、やはり磁石を使って、用心深く、目標に近よらねばならない)  彼は霧が出ることをけっして期待してはいなかった。できることなら、霧が出ないうちに、天狗平の小屋まで行きたかった。  霧は天狗平の台地がはっきりと見えるころになってからやって来た。そこまで来ていたが、彼は、立山連峰から滑るようにおりて来る霧が、天狗平を包みかくす前に、天狗平小屋の方向にはっきりと一条のシュプールをつけた。消えないように、何度か往復して踏みかためた。霧がいかに深くなっても、そのシュプールの延長方向に天狗平小屋はあるのだ。やがて彼の周囲を霧が取りかこんで、彼をめくらにすると、彼は、|物《もの》|憂《う》い顔つきで、地図を出し、彼が足下に記した一条の基線の延長の霧の中に目標を求めた。目標がきまると、一、二、三と口で歩数を数えながら前進していき、その地点に達すると、シュプールの延長方向と合っているかを磁石で確かめてから歩数を数えた。  地図上に鉛筆で彼の足跡が少しずつ延長されていった。彼はこの単純な霧中行進をつづけながら、吹雪の中では、おそらくこんなことはできないだろうと思った。事実吹雪の中でやったことはなかった。だから、今、にわかに暴風雪になったとしたら、シュプールをたどって急いで引返すほかはないのだと思った。  尾根は吹雪になっても、尾根という一つの筋道があるし、尾根の地形の一つひとつをよく知っていれば、ある程度前進できたが、目標のない広い雪原は海と同じように、地図と磁石と歩行距離にたよる以外に進む方法はなかった。  彼はこういうとき単独行であるということをつよく意識した。ひとりだから慎重になれるのだと思った。複数のパーティーがこういう場合、道を失うのは、おたがいに|誰《だれ》かをたよっていて、絶対的な責任者の所在が不明確になるからだと思った。  彼の霧中行進も、それが、システマティックにくり返されるようになると、速度を増し、一般的な手探り的|逡巡《しゅんじゅん》行進よりもはるかに速く着実に前進していった。  彼は足下の傾斜具合で天狗平の台地にかかったことを知った。小屋はまもなく霧の中に見えて来るだろうと思った。  霧の中に人の声が聞えた。 「ひどい霧だな、こんな霧の中に入ったら出られっこないぞ」 「まず、こういう霧の中を登って来る者はいないだろうな、いたとしたら、そいつはよほどのバカか|生命《い の ち》知らずだ」  二人の話し声はそれで切れて、霧の中で|尿《しと》する音が聞えた。  天狗平の小屋の煙突が見えた。煙突の先とその上方数メートルの空間の霧の中に穴があいていた。煙突の煙は戸惑ったように霧の中に溶けこんでいた。  一月三日 快晴、七・〇〇天狗平の小屋 一〇・〇〇立山最高点 午後三・〇〇ザラ峠 午後五・三〇刈安峠 午後九・〇〇|平《たいら》の日電小屋  一月四日 雪、平の日電小屋滞在  一月五日 小雪後晴、九・〇〇平の日電小屋 午後五・三〇針の木峠の小屋  加藤は山日記を閉じた。こまかいことはいま書かないでもいい、山をおりて、汽車の中で、道中のことを思い出しながらゆっくり書けばいい。彼の懐中電灯を針の木小屋の|隅《すみ》|々《ずみ》にまで当てる。針の木小屋の中には雪がうず高くつもっていた。天井に光を当てると|梁《はり》の上に|薦《こも》|包《づつ》みの|布《ふ》|団《とん》が置いてある。無人山小屋はどこへ行っても布団はこうしてある。燃料も食糧もないようであった。  加藤は梁へ登って、布団をおろそうかと思った。おろしてもいいが、使ったあとでもとどおりの薦包みにして、|縄《なわ》でしばって|吊《つ》り上げることは、なかなかできそうには思えなかった。そうかといって布団を使って、そのままにして置けば、布団は一冬で使えなくなるだろう。そんな無責任なことはできなかった。  加藤は、小屋の中でそのまま眠ることにした。床の上の雪をかきのけて、小屋の隅にあったござを敷くとそこは立派な座敷になった。彼はその上に|靴《くつ》を脱いで上った。湯を沸かして、二つかみほどの甘納豆を入れた。ゆであずきができ上るまでの間、彼は|乾《ほ》し小魚をポケットから出してぼりぼり|噛《か》んだ。彼は夕食を終ると、そのコッフェルで湯を沸かして、|魔《ま》|法《ほう》|瓶《びん》に入れた。明日の朝、天気の具合で、至急、出発しなければならないときは、魔法瓶の湯で朝食をすませるつもりだった。冬の日は短いから、食事に時間を長くかけてはおられなかった。いっさいが終ると、彼はルックザックの中へ足を入れ、|尻《しり》の下には|樺《から》|太《ふと》|犬《けん》の毛皮で作った敷皮を敷いた。そして彼はありとあらゆる防寒具を身につけて、最後に頭からすっぽりと合羽をかぶった。身体をできるだけ丸くして、深呼吸していると、眠気が全身を襲って来る。  彼は眠りにつくまでの間、彼が歩いて来た道を静かに回顧する。一月三日の朝、立山の頂上に立った時の風は強かった。とても長く立ってはおられないほど寒かった。立山から|竜王岳《りゅうおうだけ》を経てザラ峠への起伏の多い尾根通しをスキーを背負っての三時間半は快適であった。五色ヶ原の小屋からスキーをはいた。  平の日電小屋を夜九時過ぎに探し当てるまでは苦しかった。一月四日は単調な一日だった。平の日電小屋のこの一日の休養があったからこそ、今日の針の木までの遠くけわしい道が成功したのだ。彼は針の木への|急峻《きゅうしゅん》なラッセルを思い返していた。彼のいうことをよく聞いてくれたスキーは小屋の隅に立てかけてある。 (明日は大町へ下る。そして、浜坂の結婚式場へ)  加藤はそこまで考えてはっとした。  結婚ということが、同時に山と縁を切ることになりはしないだろうか。そのことが、恐怖という形態でない|怖《おそ》れとなって彼に迫って来る。 (もし結婚を頂点として山から遠ざかるとすれば、こんどの山行はその最後となるのだ)  そう考えると、明日一日の山行がたいへん重大なことのように思われた。  結婚と同時に山をやめるなどということは、考えたこともなかった。花子の手紙の中にも、彼の登山についての批判がましいことはなにもなかった。しかし花子が山に関して沈黙を守っていることが加藤に取ってはかえって重荷でもあった。結婚生活と山行とがもし両立できなかったとしたら——そういうことはあり得ないことだが、もし仮にそうだとしたら。  加藤は完全に眼を覚ました。寒いからではなく、結婚というものを眼の前にひかえての一種の|昂《こう》|奮《ふん》であった。山と結婚との両方を考えるから眠れないのだと彼は思った。加藤は六月末に帰郷したとき、浜坂のプラットフォームで会った花子のことを思い浮べようとした。紫地に小花をちらした、しののめ|縮《ちり》|緬《めん》の着物を着ていた花子は、もう少女ではなかった。美しく完成した女性であった。その美しいものが独占できることがなにか矛盾だらけのような気がした。幸福だと思った。あの美しい花子を、彼の胸の中に抱きしめることは、ヒマラヤ以上にすばらしいことのような気がした。  翌朝、彼は六時に眼を覚ました。快晴だった。天気悪化の兆候はどこにも見えなかった。外気に触れると加藤は、結婚のことも花子のことも忘れた。これから真直ぐ大町へ下山するのはおしいような気がした。ここまで来たついでにスバリ岳まで往復して来ようと思った。  彼はスバリ岳へ続く尾根道へ眼をやった。気のせいか最近誰か人が通ったようなにおいがする。飛雪で足跡はかくされているが、加藤にはそう思われた。そっちへおりていって確かめると、踏み跡らしきものが確かにあった。数日前のもののような気がした。最近誰か人がここへ来たかもしれないと思った。小屋の内部に、それらしい跡がいくつか残っていたことと思い合せて見た。数日来の吹雪で、小屋の|隙《すき》|間《ま》から吹きこんだ雪が、中をきれいにしてしまったけれど、|黒《くろ》|部《べ》側の南の窓から入ったとき、そこの吹きだまりの雪がかきのけてあったことから見ても、数日前に誰かがここへ来たことが想像された。その男がもしこの小屋へ泊ったとしたら、加藤と同じように、小屋の梁の上にある布団は使わず、小屋の中で寒いビバークをしたことになる。 (この真冬に単独行でここへやって来る登山者がおれ以外にもいるのだろうか)  そう思って、|直《す》ぐ加藤は、平の日電小屋の社宅の人が、数日前にひとりの登山者が針の木峠の方からおりて来たという話をしたのを思い出した。 「なにも単独行がおれの専売特許でもあるまいし」  加藤はそうつぶやきながら出発の用意をした。日が出ると風が出た。風に吹きとばされて夏道の出ているところはよかったが、ふきだまりに入りこむと泳がねばならなかった。だが総じて尾根伝いの道は歩きよかった。|雪《せっ》|庇《ぴ》の危険から|迂《う》|回《かい》するのも困難ではなかった。  スバリという山は、山らしいピークではなかった。尾根の出っぱりだといえば、それでもすみそうな山だったが、やはりスバリ岳と名がついているだけあって、頂上にはいくつかのケルンがあった。  加藤はポケットから名刺を出して、こごえる手に鉛筆を持って、年月日を記入した。加藤が山行記録を発表すると、冬の真最中に、あんな人間|業《わざ》とも思えない速さで歩けるはずはない。あれは加藤の|嘘《うそ》である、創作登山行だなどという悪意に満ちた中傷が口から口へ伝えられるばかりでなく、山岳会誌に書く者さえいた。嘘つきだといわれても、それを証明するなにものも加藤にはなかった。だから加藤は厳寒の単独行中は、無理をしても要所要所へは名刺を入れて置くことにした。写真は|嫌《きら》いだったが写真もつとめて撮ることにした。  加藤は名刺を二つに折って、ケルンの石の間にさしこもうとしたとき、すでにそこにさしこんである名刺を見た。同じようなことをする|奴《やつ》もあるものだと、その名刺を引き出して見ると、それは宮村|健《たけし》の名刺だった。  加藤はその名刺を加藤の名刺と重ね合せたままで考えていた。  宮村健が盛んに単独行をやっているというのは単なる|噂《うわさ》ではなく、すでに、冬の針の木峠越えを計画するほどになっていたことは驚くべきことであった。しかも、シュラーフザックも持たず、小屋の布団もおろさず、着のみ着のままで雪の中に眠るところまで、加藤と同じだったとしたら——加藤はなにかくすぐったいものを感じた。  宮村健が全速力で加藤に追いつこうとしている姿がよく見えた。 (危ないことだ。単独行などということは危険この上もないことなのだ)  加藤は他人にはそういいたかった。単独行は決して他人にはすすめられないことだと思った。一年や二年でできることではなかった。長い間の、あらゆるチャンスを利用しての不断の努力があってできることなのだ。|和田岬《わだみさき》までの往復六キロの道を、毎日石の入ったルックザックを背負って通い、三日に一度ぐらいは下宿の庭でビバークし、食べ物に馴れ、寒さに馴れ、そのコースは夏の間に充分研究し、それでもなお、危険はあるのだ。  加藤は名刺を二枚重ねてケルンの石の間にはさみこむと、それまでになく不愉快な顔をして、針の木小屋へ引きかえしていった。  宮村健には、いうべきことはいわねばならないと思っていた。